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上清派と存思法 [中国]

<上清派>

上清派は、「上清経」を信奉する神仙道の一派です。

上清派は、東晋時代の4Cに、茅山に住む許謐、許翽の親子が、霊媒の楊羲を通して、諸真人との交流から得たお告げによって、神仙の修行を始めたことに始まります。
そのお告げを元にして作られたのが「上清経」です。

上清派は、神々を体内などに観想する「存思法」を重視します。
「上清経」には様々な存思法が説かれいますが、その後、存思法は「大洞真経」において大成されます。

例えば、「奔二景の道」という方法は、日の五帝君と月の五帝夫人が体内に入るのを瞑想した後、天上から車駕(天子が乗る車)と九龍、十龍が彼らを迎えに来て、体内の彼らと共に天に昇る、といった瞑想をするのが存思法です。

また、上清派は、仏教の影響か、経典の読誦を重視して、それも神仙術としました。

そして、上清派は、仏教やマニ教などの終末論の影響を受けました。
近い将来に終末が訪れるが、善人は神仙境で災害を逃れて生き残り、新しく出現する太平の世で救世主の金闕後聖帝君にまみえることができる、という終末論を展開しました。
この終末論は、葛氏道や五斗米道にも影響を与えて広がりました。


<存思法>

「存思」は、神々を観想する瞑想法で、上清派が重視します。
ですが、存思を行うのは上清派だけではなく、上清派の発明でもありません。

存思は、神々を主に体内に観想するので、それらの神々は「体内神」と呼ばれます。
体内神は気を神格化して捉えたもので、天から体内に招くと観想する場合と、最初から体内にいると観想する場合があります。

体内神を観想することで、病死の原因となる体内の穢れ=気のよどみをなくして延命したり、さらには、不老長寿や昇仙ができる体とすることができると考えられました。

存思法の中でも「守一」と呼ばれるものが、最高の方法とされます。
「守一」は、五斗米道の張陵「老子想爾注」にも、「太平経」にも「抱朴子」にも説かれています。
「一」は「道(太極)」を神格化した神です。

「抱朴子」では「一」の本当の名前や姿は口伝で伝えられる秘密で、体内では居場所を変えるとされます。
「洞真経」では、「存三一」とも呼ばれ、3人で一体の神を三つの丹田に観想します。

「黄庭内景経」では、あらゆる体内神を存思することが説かれます。
例えば、両目に日月、心臓もしくは胃に両者から生まれた「真人子丹」、五臓六腑の宮殿に童子(嬰児)の姿の神、などを観想します。

「太上老君中経(老子中経)」では、18000の体内神がいると説きます。
中でも主要な神は、眉間にいる「天皇大帝(もしくは目中童子)」、左目にいる「東王父(日精)」、右目にいる「西王母(月精)」、胃にいる「子丹」、三丹田にいる「三天王」、「五蔵神」、二十四節気に対応する「二十四真人」(身体の上・中・下のそれぞれの結節にいる「八景神」)などです。


<茅山派>

南北朝(梁)時代には、天師道の陸修静の孫弟子に当たる陶弘景(456-536)が、神仙信仰の体系化を行い、教義をまとめた「真誥」を編集しました。

彼は、鬼神は七層の存在とし、それぞれに主神を当てました。
上の相の主神から、「元始天尊」、「玉晨玄皇大道君」、「金闕帝君」、「太上老君」、「九宮尚書」、そして、地上の「中茅君」、地獄の「北陰大帝」です。

また彼は、「道」の神格化である一なる神を体内に観想する「守一」を重視しました。
神は、呪符で召喚します。

陶弘景は茅山を拠点にしたので、彼の流れは上清派の流れの中でも「茅山派」と呼ばれます。
茅山派は陶弘景以前から存在していましたが、彼が大成したと言われます。

上清派の存思法は難しく、信奉者は知識人に限られ、梁末には消滅してしまいます。
陶弘景以降、上清派は、天師道に吸収されていきました。
ですが、「上清経」と存思法は、天師道に受け継がれました。

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全真道(北宗・南宗) [中国]

金時代には、天師道が呪符を重視する御用道教となり腐敗したのに対して、「全真道」、「太一道」、「真大道」という3つの新道教が生まれました。
「太一道」は神に祈願して病気治療を行うこと、「真大道」は足るを知る生き方が中心で、両教は教義が単純すぎるため、正式に道教と認められたのは、「全真道」だけです。

全真道は王重陽(1112-1170)により始められました。
彼には、「七真人」と呼ばれる七人の高弟たちがいましたが、弟子の丘処機(丘長春、1148-1227)が天師道の基本教義を受け入れて道教化しました。

全真道は、五代時代の伝説的な仙人の呂洞賓に対する信仰をベースにして生まれました。
呂洞賓と、鍾離権の2人を奉じる内丹修行者は、五代からあり、「鍾呂金丹派」と呼ばれます。
全真道はこの流れにあって、内丹を重視し、他の道術を軽視するのが特徴です。

全真道は、この内丹の瞑想=「内修」=「真功」と、布教である「外修」=「真行」の2つを実践の柱とします。

また、この時代の潮流に同じくして、道教・儒教・仏教の「三教一家(三教一致、三教融合)」を主張しました。

全真道は、チンギス・ハンから支援を得て、元朝は丘処機の流れである「龍門派」の全真道に、北方の道教界を管理させました。

この北方の全真道は、「北宗」と呼ばれます。
特に、最も勢いのあった丘処機の派は、「竜門派」と呼ばれます。

全真道は南方にも進出しましたが、張伯端によって始まった内丹を重視する「金丹派南宗」と合流し、「南宗」と呼ばれます。
「南宗」の内丹法は、白玉蟾によって大成されます。

「北宗」の特徴は、出家道士を中心にしたもので、民衆救済を重視することで、これに対して、一方の「南宗」の特徴は、在家や遊行者を中心にしています。

そのためか、「北宗」は内丹の実践に関して、精神のコントロールの修行(性功)から始め、それを重視する「先性後命」を主張したのに対して、「南宗」は、気のコントロールの修行(命功)から始め、それを重視する「先命後性」です。

また、「北宗」は、仏教の「仏性」に対応する「明心見性」、つまり先天的な意識を重視します。
一方、「南宗」では、陰陽双修派と呼ばれる、性を利用した養精術の房中術を行う派が多いことも特徴です。

元代には、李道純や陳致虚が、この南北の流れを統合しようとし、陳は「全真道南北宗」と名乗りました。

しかし、明時代以降、全真道は衰退しました。


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陰陽五行説 [中国]

陰陽五行説は、長い歴史の中で徐々に形成されたものです。
そして、道教や儒教などの宗教の世界観の基礎理論となりました。
また、十干・十二支などと結びついて暦や方位、そして、風水などの各種占術の基礎理論にもなりました。
オリエントのヘルメス学と同様、古代の科学に相当するようなものでしょう。


<陰陽説>

「陰陽」は、古くはBC6Cの「春秋左伝」に見られますが、これは「天の六気」である、「陰」、「陽」、「風」、「雨」、「晦」、「明」の2つです。
「陰」と「陽」は「日陰」と「日向」を意味するのでしょうが、「気」なので、それを抽象化した概念です。
しかし、自然を構成する「天の六気」であって、万物の根本原理ではありません。

占いの書、「周易」の爻である「- -」、「―」は、本来の意味は「柔」、「剛」です。
しかし、BC1C頃の「十翼」で、爻に「陰」、「陽」が結びつけられました。


<五行説>

「五行」は、古くは「書経」に見られますが、「水火木金土」の順番で記され、さらに、「穀」を加えて「六府」とも表現されます。
また、「春秋左伝」では、「六材」と表現されます。
どちらも、人間の生活に必要な材料という意味であって、自然を構成する五大元素ということではありません。

戦国時代のBC4C頃、陰陽家の鄒衍により、「五行」の「相克説」が生まれました。
これは、「木→土→水→火→金→」という順番で、前者が後者に勝つという関係です。
彼は、政治を季節に合わせるべきという時令思想を「五行」に結び付けて考え、王朝交代にも当てはめました。
政治と結びつけたため、「五徳」とも表現します。

鄒衍は、季節循環を下記のように五行に配当しました。
春=木 → 夏=火→ 秋:金 → 冬:水→
「土」は季節の変わり目の「土用」です。

秦王朝が「相克説」で自身の正当性をアピールしたため、「五行説」は広まり、万物の原理と考えられるようになっていきました。

季節に配当された「五行」は、方位にも配当されるようになります。
殷時代には中央を含めた五方の神を祀る「五方信仰」があり、これとも関係があるのでしょう。

他にも、「五行」が配当されたものには、「五臓」、「五色」、「五惑星」などがあります。

・木:春 :東 :青:脾
・火:夏 :南 :赤:肺
・土:土用:中央:黄:心
・金:秋 :西 :白:肝
・水:冬 :北 :黒:腎

万物の「五行」の配当は、呂不韋(BC290-BC235)の「呂氏春秋」の「十二紀」などにまとめられました。

BC1C頃、劉向・劉歆親子により「相生説」が生まれました。
これは、「木→火→土→金→水→」という順番で、前者から後者が生じるという循環の関係です。
彼らも、王朝交代の原理に当てはめて考えました。
しかし、すでに鄒衍には「相生説」に類する説があり、劉向・劉歆親子がそれを整理して声高に唱えました。


<陰陽五行説>

鄒衍は、「陰陽説」と「五行説」を下記のように結びつけました。
これは「主運説」と言います。

・木:陽
・火:陰
・土:-
・金:陽
・水:陰

時代は流れて、北宋の周敦頤(1017-1073)は「太極図説」で、続く南宋の朱熹(1130-1200)は「太極図解」で陰陽説と五行説を結び付けて、下記のような順番で宇宙創造論を展開しました。

 太極→陰陽→五行→太極→男女→万物


<十干・十二支>

上述の「呂氏春秋」では、殷時代にはすでに存在していた「干支」にも「五行」が配当されています。

「甲乙丙丁…」の「十干」は、一カ月を3分して10日ごとの「旬」に区切り、それを十本の指で数えるものとして生まれましした。

「十干」にも五行が、下記のように配当されました。
 甲・乙=木 → 丙・丁=火 → …

また、「五行」に配当される「十干」はそれぞれ2つになりますが、前者を陽=兄、後者を陰=弟という具合に、「陰陽」を配当しました。
そのため、「十干」を「兄弟(えと)」とも表現します。

また、「十干」の循環には、植物が芽吹いて成長し種になる生命循環の意味が付けられました。
そのため、植物との比喩で「十幹」とも表現されます。

一方、「子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)…」の「十二支」は、殷時代までに、木星の見える方向で、公転周期が12年なので、それに合わせて天を12分したことに由来します。
その後、木星から北斗七星の方向に変わりました。

秦漢時代に、民衆に分かりやすいように、動物が配当され、「子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)…」となりました。

「十二支」にも、植物の生長循環の意味が付けられ、「十幹」に対して「十二枝」と表現されることもあります。

「十二支」にも「五行」と「陰陽」が配当されました。

「十干」と「十二支」は組み合わされて「60干支」となりました。

「十干」は10年周期、旬(10日)、「十二支」は12年周期、12カ月、一日の時刻、方向を示しますので、それに配当された陰陽五行との関係で、様々な占いが可能とありました。
これらは象徴体系なので、魔術にも使用されたはずです。


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天師道 [中国]

道教の源流の一つである五斗米道は後漢末に、張陵によって始められました。
五斗米道は、「道(タオ)」を神格化した「太上大道(=無極大道)」を最高神とし、鬼神に祈祷して罪を取り除いて病気を治療することに重点を置いていました。

五斗米道は、漢から独立した政権を建てていましたが、やがて張陵の孫の張魯の時に曹操に投降しました。
張魯に従って多くの人が南から北方に移住しました。
張魯が曹操から優遇されて大官になると、官僚の多くが影響を受けて五斗米道を学びました。

その後、五斗米道は、「天師道」という名前に変わっていきます。

五斗米道・天師道は、北魏の冦謙之(365-448)の改革によって、北方では「新天師道」、「北天師道」などと呼ばれるようになります。
彼は、教職の世襲を禁止し、教団規則を厳密化しました。
彼の改革によって、天師道は、貴族階級に浸透しました。

一方、南朝の宋(劉宋)でも、腐敗に対する改革が行われ、政治色が薄れてより宗教的なものになり、教団は出家した道士が道観に住むようになります。
そして、仏教と対比して、自分たちの宗教を「道教」と命名しました。
この時、狭義の「道教」=「天師道」が成立しました。


天師道の特徴は、「三天思想」です。
これは、鬼神の支配者が「六天」から「三天」に変わると太上老君が五斗米道の張陵に伝えたとするものです。
「三天」は、「太上大道」の居場所であり同格の神格です。
そして、「三天」を助ける道が「正一盟威の道」と呼ばれます。

その後、天師満では、「霊宝経」の最高神の「元始天尊」が取り入れられ、「太上大道」と一体化されました。
また、「太上老君」が「太上大道」を補佐する存在で、玄・元・始の三気からなる「玄妙玉女」の左脇より生まれたとされました。
ですが、その後、「太上大道」と同格の存在に昇格していきます。


江南の陸修静(406-477)は、道教経典の整理を行い、「三洞経書目録」(471)を著しました。
この分類法は「三洞四輔十二類」(三洞説)という分類法で、道教の基本としてその後も受け継がれ、整備されていきました。
この分類は、天師道がこれまでの道教系思想を統合する存在であることを示しています。

「三洞」とその重要さの順位は次の通りです。

1 洞真部:「上清経」、「黄庭経」など、思神、誦経、修丹、善行が特徴
2 洞玄部:「霊宝経」など、法事、呪符が特徴
3 洞神部:「三皇経」など 葛洪 

「四輔」とその順位は次の通りです。
1 正一:三洞全体を補佐、「正一経」を含む
2 太玄:洞真部を補佐、「老子道徳経」を含む
3 太平:洞玄部を補佐、「太平経」を含む
4 太清:洞神部を補佐、「金丹経」を含む

結局、「正一経」が一番重視されたことになります。

また、道士の7位階は「正一法位」と呼ばれ、この「三洞四輔」の学習の順番と対応して作られました。
そして、彼は、戒律と斎醮儀規を制定しました。


唐時代には、「三洞四輔十二類」を基本として、「道蔵」の編纂が始まりました。
また、唐の皇帝は道教の救世の予言を利用するためか、老子の後裔であるとして、道教を援助しました。
そのため、鎮護国家と皇帝の長寿を祈る斎醮を行う符籙派(呪符を重視)が盛んになりました。
北宋時代には、天師道では「天心正法」という雷法(呪符で雷神を操り駆邪・治病・祈雨する新しい道術)が創案され、これを信奉する一派が「天心派」、「神霄派」と呼ばれるようになりました。

南宋時代には、天師道に浄明派、清微派、東華派が興りました。
また、符籙派である正一派が興りました。張盛 

元朝は、南方では正一派に道教界を管理させました。
続く明朝は、北方も含めて正一派に道教界全体を管理させました。
明時代には、道教が認めていなかった関帝や媽祖などの民間信仰を取り入れていきました。

そして、以下のような神話を語ります。

宇宙の始めの3つの気「玄気/元気/始気」から生まれた「玄妙玉女」の左脇から「太上老君」が生まれ、「太上老君」がこの世界を創造しました。
「太上老君」は春秋戦国時代に老子として現れて道家思想を説き、後漢時代に五斗米道の開祖、張陵に教説を伝えました。
またこの時、世界の統治者が六天から「三天(清微天/禹余天/大赤天)」に変わったことを伝えました。

三天は「太上大道」の3つの現れであり、神格でありその居場所であって、「三尊説」のような垂直的な構造ではなく水平的な存在です。
また、三気は陰・陽・冲の3気とは違って、これらを生み出す元になるものです。
この「三気・三天」の説は上清派から取り入れたものです。

ちなみに宋時代以降はさらに体系化が進んで、一気である「妙一」から「三元」が生まれ、これから三気と三天、三清、三宝君が生まれるとい説くようになりました。

天師道では「太上老君」は三天を補佐する存在で、三天より低い神格です。
ですが、「太上老君」を至高存在として考えることもありました。
つまり、天師道は、仏教が至高の真理そのものである仏陀が説いた教えであることと同様に、道教は至高の真理そのものである道=太上老君=老子が説いた教えであるとしたのです。


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抱朴子・葛氏道と煉丹法 [中国]

<抱朴子・葛氏道>

葛氏道は、神仙道の書として有名な「抱朴子」を著した葛洪(283-343)らの神仙道の流派です。
この派は、教団組織を作らず、師と弟子の関係の小さな修行グループでした。

この派の開祖とされるのは、呉の左慈(左元放)で、後漢末に、天柱山で神人から金丹の仙経「九丹金液仙経」などを授かったことが始まりです。
口伝を含めて、「仙経」は左慈から葛玄(葛仙公)→鄭陰→葛洪と伝えられました。

葛洪によれば、不死を得て、さらに天に上る仙人になるために必要な仙術は、「金丹法(煉丹術・外丹)」です。

次に重要なのは、「房中術(性行為によって精を取る方法)」、「行気(呼吸法などによって体内に気を留める方法)」、「服薬」の3つです。
その次が、「導引術(体を動かして気を巡らす方法)」、「存思法(神の観想法)」などです。

もともと、葛氏道には宗教的な側面がほとんどありませんでした。
ですが、「金丹法」は時間、費用などの点で困難なため、葛洪の後、「霊宝五符」などの呪符の信仰が強まっていきました。
東晋時代には、「霊宝五篇真文」という呪符が作成され、当時、終末論の流行と共に、この
呪符が大流行しました。
これには、五斗米道などの宗教性・呪術性の強い神仙道の影響もあります。
また、この呪符を解説する経であり、元始天尊が太上道君に授けたとする「元始系霊宝経」が作成され、これは天師道の道士達にも影響を与えました。

また、上清派の影響もあって、体内神の「存思」も重視されるようになりました。


<煉丹術>

「煉丹術」は、不老長寿や昇仙のための養生術の一つで、広義では「外丹」と「内丹」を指しますが、狭義には「外丹」のことです。
「外丹」は、非金属を金属にする丹薬を服用する方法で、オリエント、西洋、インドの錬金術と似ていて、交流もあったと思われます。
一方の「内丹」は、体内の気をコントロールする瞑想法です。
古くは、「内丹」は不老長寿を目的とし、「外丹」はさらに昇仙までを目的とするとし、後者の方が優れた方法とされました。
ですが、「外丹」は、完成されず、死者も多数出したため、唐代を限りに衰退しました。

中国最古の煉丹術書は、「周易参同契」だと言われています。
作者は魏伯陽で、煉丹術を、儒教の陰陽五行の哲学と、道教の哲学に基づいて説明しながら、「煉丹術」の重要性を訴えています。
そのため、他の各種の神仙術を否定しています。

基本的な理論は、「陽」である金、鉛と、「陰」である汞(水銀)、丹砂(硫化水銀)を素材にして、不死の神仙となるための「丹」を作るものです。
また、その過程の物質の変性を、色に注目して五行に対応すると考えました。

「抱朴子」では、「金丹」を重視しますが、これは「還丹」と「金液」のことです。

「還丹」は、丹砂を原料にして化学変化させて「丹」にしたもの、「丹」は人を仙人にし、物質を金にする力を持っていると考えました。

丹砂(硫化水銀)は赤い色をしていますが、化学変化の過程で、白(塩化水銀)→黒(酸化水銀)→赤と変化させながら戻すことができるので、「還丹」と表現されるのでしょう。

金が「不変」を本質とするのに対して、水銀はこのように「変化」を本質とし、その過程に死と再生・若返りを感じさせます。
丹砂は赤く血の色でもあり、生命力や復活の象徴でもありました。
また、水銀には防腐作用があるため、不死性を持つと考えられたのでしょう。

ですが、「抱朴子」には「丹」として「還丹」以外に、「丹華」、「神符」、「餌丹」、「錬丹」、「柔丹」、「伏丹」、「寒丹」と、様々な「丹」があるとしています。
仙人になるためには、「還丹」は服用100日が必要ですが、「伏丹」は服用即日で可能です。

一方、「金液」は、金に各種の物質(含水硫化ナトリウム、塩化鉄、塩化ナトリウム、雲母など)を加えて液体にしたものです。
「金液」は服すると即日で仙人になることができ、また、物質を金にすることができるとします。


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宋学と程伊川 [中国]

北宋、南宋の時代には貴族勢力が衰退し、遼や西夏といった北方民族に対抗する必要から政治に対する関心が高まり、仏教に変わって儒教が勢力を盛り返しました。
そして、道家思想や仏教哲学の影響を受け入れた形而上学的な性質を持った新しい儒教哲学が生まれました。
これを総称して「宋学」と呼びます

宋学の主要な思想家は、11Cの北宋の4人の思想家、周濂渓、張横渠、程明道、程伊川と、彼らを影響を受けてそれを統合的に体系化した12Cの南宋の朱子です。

周濂渓は道家思想、易経、五行思想の影響を受けて独自の流出論を儒家思想の中に導入しました。
これによると、宇宙は「無極→太極→動静→陰陽→五行→万物」と順に展開します。
そして、人間が宿す太極を「誠」と呼びました。
人間の中の太極は本来「静」ですが、外界と触れて「動」が生じると善悪が発生します。
この「動」が生じる瞬間を「幾」と呼び、この時に「静」を基盤にして私欲によらず、中立の立場にいることを目指しました。

程明道は周の「太極」を「天理」と言い替えて、道家思想や中国仏教の「理」を儒家思想に導入しました。彼の「理」は「気」の法則であって、「気」と一体で同時に存在します。
そして、「理」は直観的に認識される概念を越えた存在です。
彼は人間の中にある「理」を「仁」と表現し、これを養い、万物が一体であることを認識して、私情や執着なしに外界に対することを目指しました。

これに対して明道の弟の程伊川は、「理」と「気」を区別して2元論を展開しました。
「気」は単なる素材的存在で、「理」は「気」を存在たらしめている実体なのです。
「太極」として存在する根源的な本質である「理」は、流出によって限定され分化されていき万物に内在する本質として万物を形成していきます。
伊川はこれを「理一分殊」と呼びました。
これは、新プラトン主義やイスラム神智学を同様な普遍性の高い神智学の世界観です。

伊川は『中庸』を受けて、周の言う「無極」や「太極」に対応する人間の心の現れのない静的な状態を「未発」、「動静」以降に対応する心の様々な現れの生まれた動的な状態を「已発」と呼びました。
人間の心が「未発」の時は根源的な「理」の状態にありますが、「已発」となって思考が現れると身体的な「気」の要素が生じて、感情も現れ善悪も生じます。
ですから、「未発」の状態に留まることを心掛ける必要があります。

ですが、人間は身体を持つ不十分な存在なので、外界の中にある「理」を認識することを目指さなければなりません。
これを「格物致知」あるいは「格物窮理」と呼びます。
これはプラトンが世界の中にイデアを見ようとしたことと同じです。

そのためには外界を観察する瞑想を行う必要がありますが、これを道家のように「坐忘」とも、禅宗のように「座禅」とも言わずに「静坐」と言いました。
この時、外界の個物の中にある「理」を直観しているうちに、突如、「太極」そのものである超越的な「理」にまで直観が至るのです。
これを彼は「脱然貫通」と呼びました。

南宋の朱子は北宋の思想家達の思想、特に程伊川の思想を受け継いで宋学を統合・体系化しましたが、彼独自の思想はさほどありません。
ただ、「太極」が「理」に他ならないとして、「理」を強調しました。彼の思想は「朱子学」と呼ばれ、「理」を重視したので「理学」とも呼ばれます。
彼の思想は弾圧されましたが、彼の死後に国の公認の学問となりました。

(宋学:周濂渓の流出論)
(老子の流出論)
無極
道=混沌=無名
太極
一(一気)
動静
陰陽
ニ(陰陽)
五行
三(陰陽冲気)
万物
万物

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格義仏教 [中国]

漢の武帝が匈奴を征伐してから西域との交流が開け、仏教は紀元前後に中国に伝えられました。
ですが、中国の現実主義と中華思想のために仏教はあまり広がりませんでした。
初期の仏教は道家思想の用語を当てて翻訳され、道家思想によって解釈されたため、これを「格儀仏教」と呼びます。
例えば「空」を「無」に、「涅槃」を「無為自然」にといった具合にです。

六朝期の4Cには北方民族による中国北部の支配によって中華思想が打ち砕かれ、仏教に対する関心が深まりました。
また、鳩摩羅什によるより正確な翻訳が行われました。
ですが、公然と道家思想の用語を使わなくなっただけで、その道家思想的な解釈は変わりませんでした。

中国仏教の特徴は、道家思想の影響もあって実体主義的な傾向と現世肯定的な傾向が強いことです。
中国仏教を特徴づける重要用語は、道家思想から導入された「理」です。
「理」はインド仏教の「法身」、「仏性」に相当するものと解釈されました
仏教は本来、普遍的法則・本質を認めませんが、「理」はそのような意味で使われたのです。

六朝期を代表する仏教思想家は竺道生と僧肇です。

竺道生は、郭象の影響を受け、個別的存在である「事」を貫く唯一普遍の「理」を悟ることが仏教の涅槃であるとしました。
そして、この「理」は個人に内在します。

僧肇は、涅槃は心身の活動の消滅、つまり、外界の感覚を無視して無心になることだとしました。

西方地域との交流が盛んになった唐時代には、西方の様々な宗教が伝道され中国中に広がりました。
中国ではネストリウス派キリスト教は「景教」、ゾロアスター教は「示天教」、マニ教は「摩尼教(明教)」、イスラム教は「回教」と表現されました。

ですが、仏教を含めこれら外来宗教の差異については十分に認識されませんでした。
ただ、マニ教は道教化を進めて、正式に道教の一派として公認されるようになりましたが、その結果、やがて完全に道教に吸収されてしまいました。


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道教の成立 [中国]

「道教」は、道家思想、神仙思想(養生術)、方術、符咒、巫術、民間信仰、それに、仏教、陰陽五行説、儒教、明教(マニ教、ミトラ教)、弥勒信仰などが習合したものです。
「道教」という言葉は、広義では民間信仰を含めて使います。

これに対して、開祖がいて、特定の教義や教団を持つ道教を、「成立道教」と言います。
前漢時代に生まれた「黄老思想」も、道教につながる思想です。
これは、人類の始祖とされる黄帝と道家思想を結び付けたもので、人為に対する天の支配と自然の優位を説きます。
老子の神格化や神仙思想も特徴です。

「成立道教」につながる経典には、終末論などを説いた「太平経」、存思法(観想法)などを説いた「黄庭経」、煉丹術などを説いた「周易参同契」、「抱朴子」などがあります。

「太平経」は、宮崇が後漢の順帝に献上した経典です。
この経典は、罪の蓄積によって、人間に危機が迫っている状況下で、それに対して、太平の世をもたらす「太平の気」を地上に到来させるためにすべきことを伝えます。
また、生命や長生を肯定し、善行を行うことを主張します。
そして、守一(体内の一なる神)や五臓神の存思を説きます。

また、神と人を9ランクに分けました。
上から「無形委気の神人」、「大神人」、「真人」、「仙人」、「大道人」、「聖人」、「賢人」、「凡民」、「奴婢」です。


「成立道教」は、後漢時代から南北朝時代(2-4C)に、神仙道と道家思想の影響を受けて生まれました。
具体的には、「太平道」、「五斗米道」、「葛氏道」、「上清派」などです。
これらの道教はいずれも民間の多神教的・呪術的な信仰を否定する宗教です。

「太平道」、「五斗米道」は、懺悔を行い、神々に体内神を使者として送る「呪鬼法」による病気治療を重視しました。
「葛氏道(霊宝派)」は、葛洪の「抱朴子」を継承し、煉丹術、特に外丹法を重視しました。
「上清派」は、「黄庭経」を継承し、観想法である「存思法」と仏教から取り入れた終末論を重視しました。

そして、「五斗米道」を中心としながら、他の教派の思想を統合して、自らを「道教」と名乗ったのが5Cに生まれた「天師道」です。
ですから、狭義での「道教」はこの「天師道」と、その影響を受け入れた「全真道」を指します。
天師道の陸修静は、様々な道教の経典を分類し、後に「道蔵」でも行われた「三洞四輔十二類」という分類の基礎を作りました。


当初に、道教が至高神としたのは、道家思想の「道」の神格化である「太上大道」です。
「霊宝経」系では「道」の神格化は「元始天尊」とされ、両者が習合しました。
また、老子を神格化した「太上老君」、両者を合体したような「太上道君」も主な神格です。
後の北宋時代には、天の神格化として民衆に受け入れられた「玉皇上帝」が取り入れられました。「玉皇大帝」は、本来は最高位の神格ではなく、宇宙を司り、人間を審判する神ですが、最高神とみなされるようにもなりました。

5Cに葛氏道では、至高存在を3つの垂直次元で考える「三尊説」を唱えました。
第1の神格が「元始天尊」、第2が「太上道君」、第3が「太上老君」です。
ですが、「太上老君」を至高存在として考えられるようにもなりました。
つまり、天師道は、仏教が至高の真理そのものである仏が説いた教えであることと同様に、道教は至高の真理そのものである道=太上老君=老子が説いた教えであるとしたのです。

また、上清派から天師道に取り入られた思想に「三天説」があります。
これは、水平的な観点のもので、「三天(清微天/禹余天/大赤天)」は「太上大道」の3つの現れであり、神格であり、その居場所であるとされます。
また、これらは3つの気「始気/元気/玄気」に対応します。

道教の生死観では、人間が死ぬ原因は、悪行を行うことで鬼神が人間の寿命を縮めるからと、考えます。
死ぬと「三塗」の世界(地獄・餓鬼・畜生)、中でもほとんど地獄に行き、罪が消えると、「天の南宮」で浄化された後、人として再生します。
逆に、善行のみを行い、鬼神を遠ざければ不老長寿が達成できて、「洞天福地」(名山にある仙境)に至り、やがて天の仙人になれます。
一種の輪廻的世界観です。

道教には、仏教やマニ(ミトラ)教の影響を受けた終末論があります。
終末論は「太平経」にもありましたが、より具体的な形では、まず、上清派が説き始め、他派にも広がりました。
道教における終末の救世主は、「金闕聖後帝君」と呼ばれます。

天師道では、仏教の宇宙論の影響を受けて独自の宇宙論を生み出しました。
これは、仏教の欲界・色界・無色界の28天の上に、8天を加えた32天からなります。
その8天は、最上天が元始天尊のいる「大羅天」、次が三天の神格である「天宝君/霊宝君/神宝君」が住む「三清境(玉清境/上清境/太清境)」、次が不死の神仙が終末を待つ4つの「種民天」です。

一方、上清派では、陸修静の孫弟子に当たる陶弘景(5-6C)が、道教(神仙)思想の体系化を行い、下記の表のように、天地と神を7階層化してました。

(道教の神の階層)
(天師道33天宇宙論)
 
(上清派の7階層宇宙論)
元始天尊(太上大道)=無
大羅天
元始天尊と29神
太上道君=妙一
王晨玄皇大道君と104神
三天・三宝君=三元・三気
三清境(3天)
金闕帝君と84神
太上老君
種民4天
太上老君と174神
金闕聖後帝君
無色界4天
九宮尚書と36神
玉皇大帝
色界18天
(地上)中茅君と173神
欲界6天
(地獄)北陰大帝と88鬼

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玄学(南北朝時代の道家思想) [中国]

三国時代から南北朝(六朝)時代には、官吏が貴族化して儒家思想への関心が薄れ、3C頃に何人かの思想家が流出論的な道家思想を哲学的に発展させました。
これらを総称して「玄学」と呼びます。

何晏は「道」の「無」としての性質を強調しました。
つまり、これまでの道家思想の「無」は、まだ存在論的に十分に理論化されていなかったのに対して、有を生み出す根源としての存在の根拠を「無」として規定しました。
そして、多くのキリスト教神秘主義が「神」を認識できないとしたのと同じように、「無」は体得できないものとして、その超越性を際立たせました。

これを受けて、王弼は「無」を「無称」として、その言葉による表現の不可能性を強調すると同時に、「無」と「道」とを存在論的に区別しました。
つまり、「無」は至高存在の静的消極的母体であるのに対して、「道」は万物を生む創造的存在なのです。

次に、郭象は荘子の注釈によって思想を展開しながらも、超越的存在として「道」を否定し、自然のみを肯定しました。
ですがその結果、自然に内在する普遍的な法則・本質としての「理」を重視する結果になりました。
「理」を体得するためには坐忘によって「無心」となる必要があります。

最後に、張湛は郭象の「理」を受け継ぎながらも、列子の注釈によって思想を展開して「道」を「太易」と表現し、その超越性を否定しませんでした。
また、他の玄学家が「気」を重視しなかったのに対して、「気」を「太易」から生まれる存在として重視し、「理」に則ってよって万物が生滅すると考えました。
「理」は「忘言、忘意、無為」によってのみ体得、認識できるのです。

郭象と張湛によって「理」が形而上学的な主要概念として確立されました。
張湛に代表される道家の「理」は、「道」の至高存在としての超越的な状態という側面を持つと同時に、世界の万物に内在する唯一なる本質という側面を持ちます。
ですが、「理」が万物に内在するからといって、多数存在するような個的な「理」というものは考えられませんでした。
 
  


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漢代の道家思想の影響 [中国]

漢代の初期には中央集権的な秦の政治に対する反動から道家思想が盛んになりましたが、その後、武帝による儒家思想の国教化と官吏による知識の独占によって漢代には儒家思想の天下となりました。

秦代から漢代初期(-2~3C)に成立した「易経」の中の形而上学的な傾向の強い「繋辞伝」では、道家思想の影響を受けた流出論が語られます。
これによれば、「太極」から「両儀」が生まれ、次に「四象」が生まれ、次に「八卦」が生まれます。
易は象徴体系であり、垂直的かつ水平的な構造を持つ宇宙論でもあります。

そして、この易は「理」を表現するものと考えられました。易経の「理」は道家の「理」と同様に概念的ではない宇宙法則・本質ですが、象徴的、イメージな体系である易を支えるような、根源的なイメージの運動を支える本質なのです。

前漢時代後期(-1C)の「淮南子」は道家の流出的宇宙論をベースにしながらも、儒家思想の倫理に対する関心を取り入れました。
こうして、自然が本来的に善なる性質である「仁義」を持つ存在であるとし、また、「無為自然」ではなく学問などの人為的な行為を重視しました。

また、同じ頃の「列子」も道家の流出的宇宙論を受け継ぎ、「道」を「太易」と表現しました。
そして、万物が生成変化する「生・化」であるのに対して、「太易」を「不生・不化」と規定しました。


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