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部派仏教のアビダルマ哲学 [古代インド]

「部派仏教(小乗仏教)」は、一般に、仏教教団が最初の分裂後、20の部派にまで分かれた、大乗仏教ではない仏教を指します。
現在、スリランカや東南アジア諸国の仏教である「(南方)上座部」は、唯一現存する一派です。

各部派はそれぞれに「経」、「律」、「論」の三蔵と呼ばれる経典を伝承していました。
「論」は「経」が説く「法(ダルマ)」や「律」に対する研究であり、「アビダルマ」と呼ばれます。
各部派は、それぞれに独自の「アビダルマ」を発展されました。
「アビダルマ」は、仏教の哲学的な思想でもあり、詳細な存在論、認識論、実践論が作られました。

北伝仏教では、西北インドを中心に最大宗派だった「説一切有部」が、大乗仏教の批判対象でしたが、同時に多くの影響を大乗仏教に与えました。
特に「説一切有部」の流れで 5C頃書かれたヴァスバンドゥの「阿毘達磨倶舎論」は、北伝のアビダルマの代表的な書として後世に大きな影響を与えました。

一方、南伝仏教では、スリランカに伝えられた「上座部」が東南アジア諸国に広まり、同じ聖典を共有する統一された宗教文化圏を形成しました。
ブッダゴーサがスリランカで5Cに書いた「清浄道論」はその最大の聖典として、現在まで大きな影響力を持っています。


アビダルマ哲学では、世界を原子論的、要素主義的に見ます。
つまり、一般の概念やイメージによる認識は、「世俗諦」と呼ばれ、その対象は微細な実在の集まりでしかなく、実際には存在しないものです。
一方、真に存在するものは、現象を構成している「法」であり、それに対する認識は「勝義諦」と呼ばれます。

たとえば、人間(魂)といったものは「五蘊(肉体・感覚・イメージ・意志や感情や連想・思考)」の集まりでしかなく、実在ではないと考えます。

「法」の分類は部派によって異なります。
まず、存在は無常な「有為法」と永遠で心身を超越した表現不可能な「無為法」に分かれます。
「無為法」は上座部では「涅槃」のみです。
説一切有部では「択滅」と表現します。

大衆部では、心の母体を「心性本浄」と呼び、煩悩のない永遠の存在であるとします。
ウパニシャッドのアートマンや大乗仏教の如来蔵思想に似ています。

「有為法」は、瞬間瞬間に、生滅を繰り返しているとします。
しかし、「法」は「本質」を持つ存在です。
大乗仏教はこれを否定し、「空」の哲学を生みます。

「有為法」は上座部では、大きく「心(精神)」、「心所(精神の作用・状態)」、「色(物質)」の3種類に分類されます。
説一切有部では、精神でも物質でもない、その関係である「心木相応行」を加えます。
経量部では、「心所」を認めません。

らさに細かい分類はもちろん、部派や論書によって様々です。
例えば、上座部の『清浄道論』の法の体系では、52「心所」、89「心」、28「色」、1「涅槃」を立てます。
説一切有部の『倶舎論』は46「心所」、1「心」、14「心木相応行」、11「色」、3「無為」です。

物質である「色」には、元素としては、オリエントの5元素説に対して、上座部は4元素、説一切有部は「虚空」、「識」を入れて6元素です。

仏教の各部派にとって、「無我説」と輪廻の主体、業の相続の矛盾の解決は困難な問題でした。
説一切有部は心の母体として「心地」と、連続的な関係性としての「心相続」を考えます。
また、業を心理的なものだけでなく、「無表色」という業物質が身体に生まれると考えました。
経量部では業の影響を心に潜在的に存在する「種子」として、また、輪廻の主体を微細な意識である「補特伽羅」としました。
大衆部は先に書いたように「心性清浄」を立てます。
上座部は、無意識的なただ生きているだけの心の母体を「有分」を立てます。


部派仏教の実践論は、原始仏教から引き継いだ「戒・定・慧」の「三学」が基本です。
「定」は、集中する瞑想法である「止」が中心で、概念やイメージを停止して対象と一体化します。
「慧」は、観察する瞑想法である「観」が中心で、対象を直観的に認識します。

釈迦は「観」に瞑想により悟ったと考えられました。
一般に「観」の対象は、「四諦」や「十二縁起」です。
そして、「法」が「苦」であり、「無常」であり、「無我」であると理解して、それに対する執着を捨て去ります。

意識や認識世界は「涅槃(滅尽定)」、「出世間心」「無色界心」、「色界心」、「欲界心」の5つの階層で構成されます。
一般に、「欲界」は「止」の瞑想を行っておらず、対象に執着を持つ世界です。
「色界」は物質を対象にして一体化した「止」の瞑想を行っている世界です。
「無色界」は物質的な形を持たない特殊な対象と一体化した「止」の瞑想を行っている世界です。

「出世間心」は「観」の瞑想によって概念やイメージなしにあるがままを認識できるようになった心です。
「涅槃(滅尽定)」は精神が完全に止滅した状態の「止」の瞑想を行っている世界です。

「無色界」、「色界」、「欲界」は三界と呼ばれ、生き物が輪廻する世界です。
神々では、肉体を持たない「無色界梵天」、「梵天」、一般の「神々」が三界に対応します。
上座部などでは、生き物は神、人間、動物、餓鬼、地獄の五趣(五道)を、説一切有部などではこれに悪神(阿修羅)を加えた六趣(六道)を輪廻します。

三界を含む部派仏教の宇宙論は、部派によって異なりますが、「須弥山宇宙像」と呼ばれるものをほぼ共有しています。
これは、原始仏典の長部『世記経』などに現れ、徐々に精密化されてものです。
これについては「説一切有部とヴァスバンドゥの倶舎論(予定)」で紹介します。

「止」の瞑想修行は3段階(三修習)からなります。
「遍作修習(遍作定)」→「近行修習(近行定)」→「安止修習(安止定)」です。
この流れで、「止」の対象を「遍作相(感覚が捉える現実の対象)」→「取相(外的感覚なしに心の捉える対象)」→「似相(純粋な本質的対象)」と順に深めていきます。
「安止定」で初めて対象と一体化した「色界定」に到達します。

「似相」という本質を対象にした「安止定」は、イデアの観照的な認識に類似しているかもしれません。
といっても、イデア界といった形而上学的な存在は認めませんが。

「色界」の「止」の瞑想は、部派によって解釈が異なりますが、上座部のアビダルマでは5段階に分けられます。
「初禅」では精神の状態として、意識的な思考(尋)、無意識的な思考(伺)、身体的な喜び(喜)、身体の消えた幸福感(楽)、一体感(一境性)があります。
「第二禅」では、意識的な思考(尋)がなくなります。
「第三禅」では、無意識的な思考(伺)もなくなります。
「第四禅」では、身体的な喜び(喜)もなくなります。
「第五禅」では、身体の消えた幸福感(楽)もなくなり、不動の心(捨)と一体感(一境性)だけになります。

さらに、「無色界」の「止」の瞑想は4段階に分けられます。
「空無辺処」は、「虚空」を対象にして一体化します。
「識無辺処」は、「虚空」をなくして識別作用に一体化します。
「無所有処」は、識別作用をなくした状態、対象を持たないことを対象に一体化します。
「非想相非非想処」は、識別作用をなくすことをなくした状態に一体化します。

瞑想修業では、「止」に続いて「観」を行いますが、煩悩のない智恵を初めて持ち始めて以降の段階を「聖者」と言います。
「聖者」はさらに、「煩悩をなくしていく度合い」によって「預流」、「一来」、「不還」、「阿羅漢」の4段階に分けられます。
各段階を、それを達成する瞬間の「向」と到達した段階の「果」に分けると、「四向四果」とか「四双八輩」と呼ばれる8段階になります。

「預流」は、7回の転生の後に解脱できるという段階です。
「一来」は、1回の転生で解脱できるという段階です。
「不還」は、もう人間として転生することなく、梵天に生まれ変わる段階です。
「阿羅漢」は解脱に達した段階です。
   
 


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仏教の流れと神秘主義 [古代インド]

仏教は、煩悩の根本原因を無意識レベルの認識の間違いからくる渇愛と考え、それをなくすことを目指す宗教(思想)です。
その点ではきわめて合理的な思想だと言えます。

しかし、概念やイメージを通した認識を否定(間違いであると)し、直観的な認識を肯定する点で、本ブログでの定義では神秘主義思想であると言えます。

他の点については、仏教での諸派によって様々な違いがあります。
密教においては、流出論的な世界観、象徴主義、気の身体論などが完備され、完全な神秘主義思想となります。

本ブログでは、仏教の諸派、歴史的発展・変化を、大きく分けて5分類で考えています。
「釈迦の思想(原始仏教)」、「部派仏教(アビダルマ仏教・小乗仏教・南伝仏教)」、「大乗仏教(大乗顕教・菩薩乗)」、「密教(タントラ仏教・金剛乗)」、「ゾクチェン(大円満乗・究境乗・任運乗)」です。

「釈迦の思想」は、最古層の経典であるパーリ「小部」収録の「スッタニパータ(集経)」の第4章として修められている「八つの詩句(義足経)」と、第5章として修められている「彼岸に至る道」を読むかぎり、上に書いた意味できわめて合理的であったようです。
死後の存在や輪廻を認めていません(肯定も否定もせず、問題として認めなかった)。
ただ、現世での生のみを問題にし、概念やイメージによる認識も間違いによって欲望が起こらないように、常に気をつけていろと述べています。
そして、教義を持たず、あらゆる論争を避けるように述べています。

「部派仏教」では輪廻は前提とされます。
そして、教義を持つなという釈迦の思想とは正反対に、仏教が哲学的な思想として、詳細な存在論、認識論、実践論が作られていきます。
部派仏教においては、目標としての涅槃は心身の完全な止滅を意味し、絶対的な現世否定思想となります。
また、存在を原子論的・要素主義的に捉え、現象を構成している真なる実在を「法」とします。
現世のあらゆる存在は無常ですが、涅槃は永遠とされます。 
また、瞑想の状態を分析し、それが意識や宇宙の階層論という側面を持つようになります。

「大乗仏教」は、おそらくはイランの宗教の影響を受けて、有神論的傾向を持ちました。
「仏」は宇宙的な原理となり、密教に向かって複雑なパンテオンを構成していくことになります。
一方、哲学的には、部派仏教に残る実体主義を批判しながら、「空」思想を洗練します。
また、「種子」の概念で、煩悩に関わる潜在意識論を作りました。

「密教」は、先に述べたように、流出論的な宇宙論、象徴主義、気の身体論など、神秘主義思想として、世界史的にも最も完成度の高い神秘主義思想となります。
究極存在としての「空」は、流出論的な創造の母体ですが、それは一切の存在の本質性、実体性を保証しません。
究極存在は「智慧(静的・素材的次元)」=「方便(核的・創造的次元)」の一体性と考えられます。
そのため、密教では心身を活性化することが悟りにつながり、悟りは自在に現世で活動できるもの(涅槃=輪廻)となり、かなり現世肯定的な思想となります。
悟りは具体的には、意識と身体の階層としての、仏の三身(法身・報身・変化身)の獲得とされます。

「ゾクチェン」は、煩悩を断たなくてもカルマを現わさないとする思想であり、インドの「業」思想史上の革命となりました。
究極存在は、「本体(静的次元)」、「自性(核的次元)」、「エネルギー(創造的次元)」の三位一体として考えられます。
これは 「初めから清らか」、「あるがままで完成」などと表現され、「ゾクチェン」は作為性の完全な否定を目指します。
最終的には、仏の三身とは異なる「虹の身体」の獲得を目指します。
また、密教にある象徴主義(偶像主義)を乗り越えて、普遍性を指向します。


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