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現代ヨガ(アイアンガーとパタビ・ジョイス) [近現代インド]

近現代の「ハタ・ヨガ」は、シュリマン・T・クリシュナマチャリアの弟子だった、B・K・S・アイアンガーとパタビ・ジョイスによって広められました。

アイアンガーが広めたのは、今日一般的に知られる「ハタ・ヨガ」で、パタビ・ジョイスが広めたのは、動きがあって様々な修練を一度に行う「ヴィンヤサ・ヨガ(アシュタンガ・ヨガ)」です。

しかし、両者の「ハタ・ヨガ」は、タントラ色の濃いものではありません。
彼らはバラモン階級に属するので、古典ヨガやヴェーダーンタ、サーンキヤなどのバラモン哲学の伝統に、「ハタ・ヨガ」を一体化したものとなっています。
つまり、『ヨガ・スートラ』の8支をベースにしていて、観想・マントラを重視しない、あまり語らないのが特徴です。

両者ともに基本的には「ヨガ・スートラ」の8支則の順に修練すべきものであると考えます。
しかし、「アーサナ(体位)」や「プラーナーヤーマ(調気法)」の修練においても、それ以降の「プラティヤーハーラ(制感)」、「ダラーナ(凝念)」、「ディヤーナ(静慮)」、「サマディ(三昧)」の修練を同時に行うことを重視します。
この点では、「ハタ・ヨガ」的であると言えます。

また、ヨガの最終的な目的を、心身(プラクリティ)の「止滅」や、真我との「分離」ではなく、創造的な「自由」として捉え、ヨガが否定するのは楽しみではなく束縛であるとする点でも、「ハタ・ヨガ」的です。


<アイアンガー>

アイアンガーの8支についてピックアップして説明します。

アーサナの目的は、心身の浄化、保護、癒しだけでなく、精神的な目覚め、自我を弱くすることにもつながるとします。
また、アーサナによって、身体の各部分・動作に知性・気づきを吹き込み、包み込むことを目的とします。

アーサナでは、身体を外に伸ばすことを意識し、次に、さらにその外まで心を伸ばすと考えます。
伸ばし、広がることによって空間が生まれ、自由をもたらします。
身体の自由は心の自由をもたらし、究極の自由に到達します。
また、皮膚を伸ばすことは、神経の末端を伸ばすことで、そこに蓄積していた不純物が取り除かれます。
アーサナで身体を精一杯伸ばしていても、正しく行われていれば、内なる核(真我)にとどまっていられるので、くつろぎを感じます。

日常の身体感覚や動作は、習慣化された自我や言葉と結びついて、無意識のうちに限定されています。
また、精神的なコンプレックスは、何らかの身体症状として身体と一体化しています。
ですから、アーサナによって、日常とは無関係なポーズをとり、普段以上に筋肉を伸ばしたり曲げたりすることで、日常の身体感覚・動作を自由にする、つまり、意識化し、相対化し、変容可能な動的なものとすることができるのでしょう。
それは同時に、習慣化された自我や言葉、コンプレックスから自由になることでもあります。

次に、プラーナーヤーマとは、表面的には呼吸と止息の時間を伸ばすことです。
一瞬一瞬の座り方と呼吸の流れを観察し、正していきます。

プラーナーヤーマは、「生命に捧げる祈り」であり「献身・愛・自己放棄の行為」であると言います。
まず、吸気では、無限なる神・宇宙の生命エネルギーを取り入れ、その後の止息では、吸収したエネルギーを全身に行きわたらせ、外なる神と内なる神が融合した状態となりつつ、自分は真我であるという確認をもとに心を安定させます。
呼気では、心からすべての妄想を取り除きつつ、宇宙エネルギーと融合します、その後の止息では、残っている記憶とエゴの汚れを取り除き、ストレスが流れ出して、自己を放棄し、外なる宇宙に溶け込みます。

最も基本的なプラーナーヤーマは、「ウジャーイー」です。
ただし、アイアンガーの言う「ウジャーイー」は、3つの「バンダ」(喉、腹、肛門の締め付け)と呼吸・止息を組み合わせたものです。
バンダはプラーナを分散させずに、サマーナとプラーナを上昇させ、スシュムナーにプラーナを入れやすくします。

アイアンガーは、「ダラーナ」について、「アーサナ」への集中を勧めます。
アーサナの実習の最中に、身体の各部分への注意力の波を送ると、それが全身に広がり、一つになります。

「ディヤーナ」は、基本的に、閉眼で、対象を持たず、思考しないというスタイルです。
そして、アイアンガーは「プラーナーヤーマ」、特に止息(クンバカ)の状態への集中を勧めます。

「サマディ」については、これをアートマン=ブラフマンの体験、存在の大海へ融合した状態とします。
「サマディ」は、瞑想の結果として訪れる、神の恩寵によって到達するものだと言います。

アイアンガーは、「クンダリニー・ヨガ」については多くを語りませんが、「サマディ」の体験と同じ性質のもの、つまり、自分から起こそうとして起きることではない、近道ではない、と言います。
これは、タントラの考え方とは異なります。


<パタビ・ジョイス>

パタビ・ジョイスのヨガの特徴は、「ヴィンヤサ」と呼ばれる一連のセットとなったポーズを、呼吸などと連動させながら連続的に行うことです。
一般に「アシュタンガ・ヨガ」という名前で呼ばれていますが、「アシュタンガ」というのは古典ヨガの「八支」を意味しますので、本ブログでは「ヴィンヤサ・ヨガ」と呼びます。

「ヴィンヤサ・ヨガ」は、古代の聖者ヴァーマナ作の経典「ヨガ・コーンルタ」を元にしたヨガとされます。
しかし、「ヴィンヤサ・ヨガ」がいつ頃にどういう影響で生まれたものか、詳しいことは分かりません。

「ヴィンヤサ・ヨガ」は、多数の「アーサナ」と、プラーナのコントロール、「バンダ(締め付け)」、「ドリシュティ(視線の固定)」を重視する点で「ハタ・ヨガ」的です。

「ヴィンヤサ・ヨガ」は、在家の修行者が、短い時間の練習によって、古典ヨガの八支を習得できるようにするために、作られたとされています。
2時間程度の練習の中で、8支を同時に行います。

「ヴィンヤサ・ヨガ」の8支についてピックアップして説明します。

第3支の「アーサナ」は、一連の動きの全体を指します。

第4支の「プラーナーヤーマ」では、「ウジャーイー」という喉頭部を細く締める呼吸法を重視します。
そして、動きを呼吸に合わせ、プラーナによって体を動かすようにします。

第5支の「プラティヤーハーラ」は、「ドリシュティ」を通して練習します。
視線を特定の場所に固定し、聴覚的には呼吸の音に集中することで心を内に向けます。
先ほどの「ウジャーイー」を行うと、シューという微かな音がするので、これを聴きます。

第6支の「凝念(ダラーナ)」については、3つの「バンダ」に集中することで練習します。
これによって、動きと呼吸と気づきを結びつけます。
「バンダ」はプラーナのコントロールが目的ですが、「ヴィンヤサ・ヨガ」では、気づきを重視します。

第7支の「静慮(ディヤーナ)」については、瞑想において、対象に集中することを解いた後、意識的なコントロールを捨てることを重視することもあるようです。
作為なしの瞑想は、ヒンドゥー系では、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジに近いと思います。

第8支の「三昧(サマディー)」については、特別な解釈はないようですが、タントラ的な「ハタ・ヨガ」同様、プラーナが中央管に入った時に起こるとされます。

以上のように、「ヴィンヤサ・ヨガ」ではポーズ(動き)と「ウジャーイー」、「バンダ」、「ドリスティ」の3つを結びつけることを重視し、これを「トリスターナ」といいます。

「ヴィンヤサ・ヨガ」には、初級(プライマリー・シリーズ)、中級(インターミディエート・シリーズ)、上級(アドヴァンスト・シリーズ)の3つのシリーズがあります。

プライマリー・シリーズは、肉体的な病気の根本原因を取り除くこと(ヨガ・チキツァ)を目的とします。
ポーズとしては、前屈や股関節の回転を中心にしています。
これを終えるには、毎日行って1年ほどかかると言われています。

インターミディエート・シリーズは、プラーナの脈管の浄化(ナーディ・ショーダナ)を目的とします。
ポーズとしては、後屈や、脚を頭の後ろにもって来る姿勢、アームバランスを中心にします。
いずれのポーズも中央管のプラーナの上昇をしやすくしますが、後屈は中間部、脚を頭の後ろにもって来る姿勢は下部、アームバランスは胸から上部を浄化・刺激します。

アドヴァンスト・シリーズ(A、B)は、最終的にはクンダリニーの上昇を目的とし、「スティラ・バーガ(神の忍耐)」と呼ばれます。
ポーズは、インターミディエート・シリーズと似ていますが、各ポーズの効果を中和する統合セクションがないのが特徴です。

3つのシリーズは、グナで言えば、タマス、ラジャス、サットヴァに、ポーズの種類で言えば無生物、動物、神聖なもの(神)のポーズに対応します。


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エックハルトと自由心霊派 [中世ユダヤ・キリスト教]

神秘体験によって語ることを止めたトマスに対して、神秘体験からこそ語ったのがヨーロッパ中世最大の神秘主義的神学者のエックハルトです。
エックハルトはトマスがちょうど亡くなった頃、彼と入れ替わるようにドミニコ会に入会しました。

彼は師のアルベルト・マグナス同様、アリストテレスと新プラトン主義の両方から影響を受けました。
ちなみに、13Cはドミニコ会を中心にアリストテレス主義が全盛をきわめたに対して、14Cはフランチェスコ会を中心にした新プラトン主義の反撃の時代でした。

すでに紹介したように、キリスト教神秘主義は通常、神と無から創造された被造物である魂が断絶していると考えて、花嫁である魂が花婿である子なる神キリスト=ロゴスと結合するという表現によって、魂が本来の神の似像に戻ることを目指します。
ですが、エックハルトはこれを越えて、魂は父なる神を受け入れて子なる神を生むと考えました。
エックハルトはキリスト教の一線を越えて、魂の神性を認めたのです。

そのためには、魂はあらゆる被造物を「離脱」しなければなりません。
この時、あらゆる心身の働き、自我はもちろん、あらゆる神に対する思いも神に対する認識も神に至る能動的な方法論も捨て、神の像、3位一体の神格も捨てます。
すると、この「乙女」のように「無」である受け身の魂を父なる神が能動的に満たし、父なる神と父なる神と等しくなった「婦女」である魂が一人子を生むのです。

この父なる神が魂の中で子を生むのは、神が本性の内で一人子を生むのとまったく同じなのです。
そして、この時、神がイエスとして現れたのと同じように、神は人となっています。
この父なる神と、父なる神と等しい魂は、「原初の根源」、「魂の根底」、「原初の純粋性の充填」、「認識されない深く隠された暗黒」、「何者も住まない静寂の砂漠」と表現されます。

父なる神が魂の中で子なる神=ロゴスを生むのなら、この時、人は父の語るロゴスをそのまま語ることになるはずです、エックハルトは自分が話しているのではなく、真理そのものが話していると語りました。
ですから、彼はトマスのように沈黙することなく、語る必要があったのです。

エックハルトの教説はインド思想に似ています。
彼は、被造物に愛着をいたくことが悩みの原因なのでこれを放棄すべきこと、そして、すべてのものに神を見ることを語りました。

エックハルトの言う「離脱」は単なる被造物の否定に留まりません。
この「神の不動の離脱」と表現されるのは、神が天地を創造したり、人となるその時も、つまり被像物と関わっているその時も同時に被造物から離脱し続けているのです。

これと同じように、人間の最終的な目標も、被造物から離脱しながら、現実生活で活動を行うべきなのです。
エックハルトは行為そのものよりも、離脱しているかどうか、いかなる状態でその行為を行ったかを問題としたのです。

エックハルトは晩年に異端の審問を受け、死後に異端とされました。
彼は1314年からシュトラスブルグ、1323年からケルンで説教しましたが、その頃、この地には「自由心霊派」と呼ばれる神秘主義的な異端思想が盛んでした。

修道院は比較的裕福な人間が入会する組織なのですが、これとは別に貧しい人間が入会する組織である「ベギン会(女性会)」、「ベガルト会(男性会)」がドイツに存在しました。
ベギン会は花婿としてのキリストと、花嫁としての魂の結合を目指す一般的なキリスト教神秘主義の傾向を持っていました。
シュトラスブルグからケルンにかけてのライン川上流の地域のベガルト・ベギン会には過激な自由心霊派が生れました。

自由心霊派は完全に霊化された人間はどんな行動をしようが、それは神聖なもので、教会の規則や一般的な倫理などに縛られず、キリストさえ必要ないと考えました。
この考えは、エックハルトとほぼ同じです。
これは、社会道徳を否定したグノーシス主義的な自由の考え方に近いものです。 
 


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托鉢修道院とスコラ学 [中世ユダヤ・キリスト教]

旧来、修道院は都市から離れて山間で隠遁生活を行う場所でしたが、多くの異端が生まれた都市部で、正統説を説教して異端派を改宗させるための存在として新しいタイプの教皇直属の修道院が生まれました。
これは「托鉢修道院」、あるいは「説教修道院」と呼ばれます。
具体的にはドミニコ会とフランチェスコ会です。

托鉢修道院は異端に対抗するために異端同様の清貧さを重視しました。ですが、これ自体が異端視の危険を持っていたのです。
カトリック教皇は、托鉢修道院の清貧さを認めつつ、それが過度にならないように制限し、これに反発したフランチェスコ会の厳格派に対して異端宣告をしました。

また、托鉢修道僧達は1200年に生まれたパリ大学の教師職を独占しました。
彼らは神学や哲学のスペシャリストとなり、一方で異端を恐れない革新的な新思想を担うと共に、他方で異端審問官を勤めました。

13Cにはトレド発のイスラム哲学の翻訳運動が進展して、本格的にイブン・ルシド(アヴェイロス)主義、アリストテレス主義が輸入され、スコラ学的方法が発展します。
ですが、1210年以来、アリストテレスの著作は次々と禁書にされました。
しかし、パリ大学これに屈せずに1255年には人文科を実質的にアリストテレスを中心とした哲学科としました。

すでに紹介したように、旧約聖書とアリストテレス哲学(アヴェイロス主義)には矛盾があって、これがイスラム哲学で問題とされました。
西欧の哲学や神学で問題とされた矛盾は次の2点です。

アヴェイロスによれば、世界は始まりも終わりもなく、個々人の霊魂の最高の部分である能動的知性(アリストテレスの言う「一切をなす知性」)は個人を越えた単一なる存在です。
ですが、キリスト教では世界は始まりのある有限の存在で、霊魂は個的な多数ある存在です。

この矛盾に対して、アリストテレス哲学を否定する立場、キリスト教に矛盾しない範囲で認める立場、宗教と哲学は立場が違うとして2つの真理を共に認める立場がありました。

13Cのフランチェスコ会の代表的な神学者であるボナヴェントゥラは、新プラトン主義的な神学の立場からアリストテレスを否定しました。
彼は偽ディオニシオスが存在をその階層に応じた受容能力によって神の似像となると考えたこと、また、アヴィセンアが魂を宇宙や霊的知性界の全体を映す鏡だと考えたこと、この2つの思想を統合しました。
そして、人間の霊を階層を映す鏡にして階層を見る目差し、人間の魂をすべてを互いに表現する教会的存在と考えました。

一方、中世のキリスト教神学、スコラ学を代表する思想家は、ボナヴェントゥラと同時期にパリ大学で教えていたドミニコ会のトマス・アクィナスです。
彼は、アリストテレスが「一切をなす知性」を一なる存在とは言っていないことを突き止め、また、世界の永遠性については、理性の範囲を越えたものとして聖書の啓示を優先しました。
トマスのアリストテレス主義は最初は異端とされましたが、彼の死後、正統説として認められるようになりました。

トマスの、そしてスコラ学の主著である『神学大全』は実は未完なのです。
トマスは『神学大全』を執筆中の1273年のある日のミサの時、神秘体験を経験しました。
そしてその後、彼は一切の執筆も教授も絶ったのです。
彼は秘書に「たいへんなものを見てしまった。それに比べれば私のこれまでに書いたものはワラクズのように思われる」と述べました。
つまり、キリスト教最大の神学者であるトマスは、ただ一度の神秘体験によって神学の価値を否定して沈黙を通したのです。 


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