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大乗仏教の仏陀観と真理観 [古代・中世インド]

大乗仏教では、部派仏教に比べて、「仏陀観」、「真理観」が大きく変化しました。


<仏陀観>

部派仏教においては、「仏」は開祖として理想化され、伝説化され、信仰の対象となっていたとしても、基本的には釈迦という人間でした。
しかし、大乗仏教では、「仏」は徐々に、超人間的存在、汎神論的真理となっていきました。

部派仏教の時代にも、釈迦の過去世の物語(ジャータカ)が盛んになり、釈迦以外の「過去仏」の存在も認められるようになりました。

大乗仏教では、釈迦が前世で、燃燈仏に出会ったことがきっかけになって菩薩になったように、菩薩になるためには、仏に出会う必要があったと考えたのでしょう。
しかし、大乗仏教の時代には、釈迦はすでに亡くなっていて「無仏」の時代になっていました。
そのため、一方では、「他土仏」、つまり、この世界の他に、十方に多数の世界があり、それぞれの世界に仏がいると考えられるようになりました。

もう一方で、仏は「不滅」、「常住」の存在であると考えられるようになりました。
つまり、肉体を越えた仏が必要とされたのです。

『法華経』では、「久遠実成の仏」という存在が考えられました。
これは、永遠の過去から存在し続け、あらゆる仏の根本となる仏です。
釈迦などはその化身のように考えられるようになりました。
「久遠実成の仏」というのは、「仏」の神格化を一歩進めた考え方です。

「大般涅槃経」でも、釈迦は肉体としては亡くなっても、如来は常在な存在であると主張します。
部派仏教では、「涅槃経」が釈迦の滅後は「法」を拠り所とすべしと説き、その後、「法」の集合体を「法身」と表現するようになります。
しかし、「大般涅槃経」では、この「法身」を、仏の「智慧」と「解脱」と一体のものとして、「仏」を抽象化して永遠の存在と考えました。
大乗仏教は「一切皆空」であり、「法」にも実体性を認めないので、「法」以外の根拠を必要としたのでしょう。
「智慧(般若)」を神格化(女神)して重視するのは、ヘレニズム思想の特徴です。

そして、これが「仏性」、「如来蔵」として、すべての人間の心の中に存在する(如来蔵思想)と主張しました。
「仏性」は、「仏の構成要素」、「仏の本性」という意味であり、「仏舎利」という物質的な存在(色身)を念頭に置きながらも、それを普遍的な原理として昇華したと考えることもできます。
こうして、仏は、すべての人間の心に存在する清浄な存在にもなりました。

その後も、超人間的・宇宙原理的な仏が、次々と登場します。
『華厳経』の「ヴァイローチャナ(毘盧遮那仏)」、浄土教の「アミターバ(阿弥陀仏・無量光仏)」、「アミターユス(阿弥陀仏・無量寿仏)」などです。

「ヴァイローチャナ」や「アミターバ」は光を特徴とした仏であるため、イランの「ミスラ」や「マズダ」の影響を考えることができます。
「アミターバ」は永遠・時間を特徴とするので、「ズルワン」の影響を考えることができます。

インドで悪神とされているアスラ(阿修羅)の神々は、本来は根源的な光の神々で、デーヴァ(天部)の神々より高い位に当たる存在でした。
アスラには、その王とされる「ヴィローチャナ」やその息子「バリ」がいます。
仏教の「ヴァイローチャナ」はこれらのアスラの光の神をモデルにしていると考えられています。
同じアーリア人のイランの宗教では、アスラに相当するアフラの神々(マズダ、ミスラなど)が、悪神化せずに主神のままにとどまりました。
ですから、「ヴァイローチャナ」、「アミターバ」、「アミターユス」などの仏は、イランの光の神の影響で、アスラ系の神々が仏教的に解釈されて復活した姿だと考えることができます。


また、「仏」という存在を階層的に分析する「仏身論」が発展し、「仏」の概念が、普遍的な原理へと高められました。

まず、「仏」は物質的な体の「色身」と、智慧としての「法身」に分別されました。
さらに「色身」は、肉体の「変化身(応身)」と、魂の体の「報身(受用身)」に分別されました。
一方の「法身」は、空そのものである「理法身(自性法身)」と、空を認識した智慧である「智法身」に分別されました。

さらにさらに、「理法身」は、超時間的で無始の「自性清浄身」と、煩悩から離れて清らかになった有始の「客塵清浄身」に分別されました。
「自性清浄身」は「初めから清らか」、「客塵清浄身」は「自然成就」と表現されます。

「自性清浄身」、「客塵清浄身」、「智法身」は、大乗仏教における三位一体説と考えることができます。

報身や変化身も細かく分別されましたが、省略します。


仏身の階層
法身
理法身・自性法身
自性清浄身
客塵清浄身
智法身
色身
報身・受用身
変化身・応身


このように、「仏」は神格化され、普遍的な原理となったのですが、大乗仏教は「空」思想が基本なので、「仏」も「空」であるということが強調されました。
たとえ「仏」が形を持つ存在となっても、それは実体のない存在であり、また、あらゆる存在の形・本質を根拠づけることはありません。

 
<真理観>

部派仏教においては、この世の実在・実体は「法」と呼ばれます。
しかし、大乗仏教は、「一切皆空」として、「法」にも実体性がない(法無我)と考えました。
つまり、大乗仏教は、「実在」を、「本質」を持たない、「実体」ではない存在と考えるのです。

一般に、存在は、「個々の存在・意識」と「諸存在・意識の母体(基体)」という2つに分けて見ることができます。
サンスクリット語では「ダルマ」と「ダルミン」になります。
母体としての「ダルミン」から、個的な存在・現象としての「ダルマ」が生まれるという関係です。
これは新プラトン主義の流出説や、サーンキヤの開展説に近い構造で、神秘主義思想の特徴でもあります。

アビダルマでは、「ダルマ」は現象ではなく個的な実体であり、「ダルミン」は「ダルマ」の基体ではなく「自性(本質)」です。
しかし、大乗仏教は、この「自性」も「空」であると否定します。
空思想では、「ダルマ」は実体性のない現象で、ナーガルジュナは「ダルミン」も「空」と考え、実在として表現しません。
そのため、真理を表現するに当たっては、「○○は空である」と否定的にしか表現できませんでした。

しかし、大乗仏教では、徐々に、「ダルミン」に当たる存在を、積極的に肯定的に表現するようになりました。

「ダルミン」に当たる言葉は、まず、「法性(ダルマター)」、「法界(ダルマダートゥ)」です。
「法」の 「母体」、「基体」に当たる「実在」ですが、それは「自性(本質)」ではなく、「我(実体)」でもありません。

また、これは、あるがままの真理として、「真如」とも表現されます。
これは、原始仏教の時代から、仏のことを、「あるがままの真理に到達した者」、大乗仏教の時代になると「あるがままの真理からやって来た者」という意味で、「如来」とも表現されることに対応します。

これらは、抽象化された「仏陀観」として生み出された、「仏性(ブッダダートゥ)」、「法身(ダルマカーヤ)」なども、これと同義の概念となります。
つまり、仏陀と智慧と真理を、主体と客体を一体とする概念となったのです。

また、これに伴って、否定的な意味であった言葉が、肯定的な意味へと変質しました。

「自性(スバヴァーヴァ)」という言葉もそうです。
本来、「自性」とは「実体」が持つ「本質」であって、大乗仏教ではこれは存在しないので、実在は「無自性」です。
しかし、「無自性」であること、つまり「無自性性」ということが、実在の「自性」であると表現するようになりました。
つまり、「自性」は、「存在しない本質」から、「本質が存在しないあるがままの真理」になったのです。
こうして「自性」という言葉も、肯定的な意味での「ダルミン」を示す言葉になりました。

同様に、「空(シューニャ)」、「空性(シュニャーター)」も、実体性を否定する述語から、あるがままの真理、現象を生み出す母体を表現する主語になりました。

また、「法」も、「法性」や「法界」の意味、つまり「ダルミン」の意味になり、「実体ではない個物」から、「あるがままの真理であり、現象を生み出す母体」になりました。

しかし、あくまでも、教義上は「ダルミン」は実在であっても、実体ではありません。
すべては「空」なのです。


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如来蔵思想 [古代・中世インド]

「如来蔵(タターガタガルバ)」とは、人の心の中にある仏の本性のことであり、「仏性」と同義です。
如来蔵思想は、すべての人間の心の中には、仏と同じ清らかな心(自性清浄心)が存在していて、煩悩(客塵煩悩)によって覆われているが、それを取り去ると仏になることができる、という思想です。

如来蔵を巣主張する「如来蔵思想」は、初期の大乗仏教の思想潮流の一つです。
中観派や般若系経典が真理を「~がない」という否定的に表現したことを受けて、唯識思想と如来蔵思想は、「~がある」という肯定的な表現を行いました。

如来蔵思想には、唯識派のような「意識論」はなく、「如来論」というべき思想です。
それゆえ、「修道論」もなく、人々に希望を与える「救済論」というべき思想です。

一般に、仏教は「無我」を主張し、「アートマン」のような実体を認めません。
しかし、初期の如来蔵思想の経典や論書には、「如来蔵」を「アートマン」と同様な存在であると言っているものもあります。

「如来蔵」の概念は、直接的には部派仏教大衆部の「心性本浄」の延長上にあると言えます。
インドの文脈では、ヴェーダーンタ哲学の「アートマン」、サーンキヤ哲学の「プルシャ」の影響を受けているでしょう。
また、ヘレニズムの文脈では、グノーシス主義や、心の深層にある神性があるというギリシャ・イラン系宗教からも「影響を受けているしょう。
大乗仏教はヘレニズムの東端の運動であり、ヘレニズム思想の特徴であるグノーシス主義と近いのは、当然だと言えます。

仏教の経典・論書の上では、「法華経」が、如来は不滅な存在であること、すべての人が仏になることができると宣言したことが、如来蔵思想への最初の一歩だったのでしょう。

それを受けて、1C後半から2C中葉の「大般涅槃経」では、釈迦がなくなっても、如来の本性としての「智慧」(法身)は常住であり、すべての人にその如来の本性である「仏性」が存在していると、改めて宣言しました。
そして、この経典の中で、「仏性」と同じものとして「如来蔵」という言葉を使いました。

「大般涅槃経」では、「如来蔵」は、「法身」=「涅槃」でもあり、「常楽我浄」を特徴とするものとされます。
この仏の実在性を強調するために、「如来蔵」を「我(アートマン)」であると表現しているのです。
ただし、これは誤解を受けやすいので、菩薩のための秘密の教えであるとも表現します。

次に、「如来蔵経」は、「大般涅槃経」の「すべての人の心の中に仏性がある」ことを、「醜く萎れた花弁のうてな(蓮台=パドマガルバ)で光輝を放ちつつ瞑想する如来たち」という比喩で表現しました。

如来思想を論理的に表現しようとしたのは、「宝性論」です。
同書、及びその註釈書は、「一切衆生が如来の本性を有している」ことを、

 ・ 法身が遍満している(仏の智慧が人の中に浸透している)
 ・ 真如が無差別である(それは無垢なる本性なので、仏も人も不二である)
 ・ 如来の種姓が存在する(仏となる可能性を持っている)

という3つの観点で説明します。

如来蔵思想を体系的に論じた「宝性論」では、
・因である「有垢真如」=「如来蔵」、「仏性」=「智恵」
・果である「無垢真如」=「菩提」=「慈悲」
・両者の共通の性質を「真如」
としました。

また、唯識思想までは、真理の客体としての「涅槃」は無為法、それを認識する主体(心・識)としての「智恵」は有為法として区別されました。
しかし、如来蔵思想では、両者が一体のものとなりました。
「真如」という遍在性を含意する概念が、無為法と有為法の区別をとっぱらったのです。

如来蔵思想は実在論的傾向が強いため、当初は、唯識派と接近していました。
しかし、6C以降は中観派と接近し、「如来蔵」は「空」、「無我」であるとされるようになりました。

これを受けて、チベットでも、中観帰謬論証派の「自性空説」の立場から、「如来蔵」を実体視する立場を、「他空説」として否定するのが正統派となっています。


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瑜伽行唯識派 [古代・中世インド]

「瑜伽行唯識派(ヨガ・チャーラ)」は、「中観派」と並ぶインド大乗仏教の2大学派の一つです。

「唯識派」の思想は、説一切有部の教団の中の「瑜伽師(ヨガ・チャーラ)」と呼ばれる瞑想修行を行っている僧達が、その体験を元にしつつ、アビダルマや「空」思想を取り入れて作りました。
厳密に言えば、「唯識派」は学派名で、それをになったのが「瑜伽師」です。
両者の関係は、サーンキア派とヨガ派の関係と同じでしょう。

唯識派は、無常・無我である人がどのように輪廻し、業の因果法則を引き受けるのかを、唯心論的な世界観と、無意識的な心の分析を通して理論化しました。

唯識派は、マイトレーヤ(弥勒、2-3C)に始まり、アサンガ(無著、4C)、ヴァスバンドゥ(世親、4C)の兄弟が教学を大成しました。
しかし、弥勒は、実在人物ではなく、本尊としての弥勒菩薩だと推測されます。

その後、論理学を完成したディグナーガ(陳那)、『成唯識論』の元となる思想を展開したダルマパーラ(護法)などが出ました。

主な経典は、『解深密経』、論書は、『瑜伽師地論』、『現観荘厳論』、『摂大乗論』、『唯識三十頌』、『成唯識論』などです。

唯識派は、「三時教判(三転法輪説)」といって、仏の思想は、「小乗」(初転法輪)、「中観派」(第二転法輪)、「唯識派」(第三転法輪)と3段階で、順に、より深い教えが説かれたと主張します。
その3段階の思想はそれぞれ「有」→「無」→「中道」を本質とし、最後の唯識説が仏の密意であるとします。
つまり、中観派が真理についてただ「空」と否定的に表現しただけであるのに対して、唯識派は肯定的にその構造を示そうとしました。


<教義>

仏教では瞑想において、主客未分、無概念(無分別)の状態を体験します。
中観派が「空」と表現したこの状態の対象を、唯識派は「識(ヴィジュニャプティ)」と表現します。
この言葉は、本来は「表象(作用)」という意味ですが、この主客未分の状態から、分別する作用、分別された世界まで、すべてを含んだ概念です。

唯識派は、日常的な認識世界、心身内外の世界はすべて、「識」の作用によって表象されたものにすぎない、と考えます。
このことを「唯識性」と言い、「心の法性」とも言います。
この認識を理解している状態を「住唯識」と言います。
ですから、「法」も「我」も「識」によって仮設されたものにすぎません。

アビダルマ(説一切有部)では、実在である「法」を大きく「色」、「心(王)」、「心所」、「不相応行」、「無為」の五位に分類します。
唯識派では、「識」のみが実在なので、以上の「法」はすべて二次的な存在でしかありません。

もう少し厳密に言えば、「心(王)」と「心所」が「識(ヴィジュニャーナ)」であり、「色」、「不相応行」は仮の「法」、「無為」は「識」の本性です。
説一切有部では「心王」に「識」がありますが、唯識派では、「心王」に八識(後述)があるとします。
そして、「不相応」に「名身」「句身」「文身」などの言語に関するもの、「無為」に「真如」があります。
「色」、「心所」、「不相応行」、「無為」は、本質的には「心(王)」に、つまり、「識」に帰属します。

唯識派では、説一切有部と同様、「涅槃」は無為法、「識(心)」は有為法として区別しますが、「涅槃」を「識の本性」と表現することで、両者が連続的なものとなりました。

唯識派では、未分化な状態から分別された世界が生まれる過程を、「転変(パリナーマ)」と呼びます。
これは、サーンキヤ哲学がプラクリティから世界が生まれる過程を表現した「展開(パリナーマ)」と同じです。

唯識派では「識」に8種類の階層(八識)を考えます。

・「前六識」(識) :5感に対応する「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」と「意識」
・「末那識」(意) :自我の執着を生み出す無意識的な意識
・「阿頼耶識」(心):一切を生み出す根源的な意識。「阿陀那識」、「一切種子識」、「異熟」とも呼ばれる

アビダルマでは「識(ヴィジュニャーナ)」、「意(マナス)」、「心(チッタ)」はほぼ同じ意味で使います。
しかし、唯識派では、一般に「識」は前六識、「意」は「末那識」、「心」は「阿頼耶識」を指します。

「阿頼耶識」は根源にある「識」で、他の七識を生み出します。
「阿頼耶識」は輪廻の主体であり、それ自体は善でも悪でもありません。

「阿頼耶識」は「種子(習気)」を蔵しています。
「種子」は、人が無常であるのに業がどう引き継がれるかを説明する概念で、部派の「経量部」より取り入れました。
ちなみに『倶舎論』では、種子は五蘊に溜ります。

行為(業)は、臭いが移るように、その影響・結果を「阿頼耶識」に「習気=種子」として植え付け(薫習)ます。
この行為の結果という側面が「習気」と表現されます。

「習気=種子」が原因となって、成長して、行為を生み出します。
この行為の原因としての側面が「種子」と表現されます。

七識が「阿頼耶識」に「種子」を植え付け、「阿頼耶識」の「種子」が七識を生み出すという、相互関係が唯識派の考える「縁起」であり、「阿頼耶識縁起」と呼ばれます。
「識」はこのように、相互関係によって、また、個々の「識」自身として、常に変化しつづけます。

ですから、唯識派の「(識)転変」は、サーンキヤ哲学の「展開」のように深層から一方向的に創造されるわけではありません。
唯識派では「識」は「転変」するから無常なのであり、一方、サーンキヤ哲学では「転変」するので常住とされます。

「阿頼耶識」の別名の「阿陀那識」は、肉体を形成する潜在的な力として『解深密経』で説かれました。
「阿頼耶識」が完全に清浄になって仏になった場合は、「阿頼耶識」という名は使えません。
しかし、「阿陀那識」は無始より仏になった後でも呼ぶことができる名前です。
「阿陀那識」には、「如来蔵」という概念を取り込んでいると考えることもできます。

「意識」の原義は「意(マナス)に依る識」、「末那識」の原義は「意(マナス)という名の識」です。
「末那識」は「阿頼耶識」を自我であると思い誤って執着する「識」です。
サーンキヤ哲学の「マナス」は唯識派の「意識」、「アハンカーラ」が「末那識」に対応します。

「末那識」は執着の根源ですが、それ自体は善でも悪でもないとされます。
具体的に善悪と伴う業を生み出すのは「意識」であり、それによって「業種子」が生まれます。

中観派までの仏教は「世俗諦」、「勝義諦」という2つの世界を考えたのに対して、唯識派では「三性説」といって認識世界を3つで考えます。

「世俗諦」・「有」に相当するのが、分別された執着のある対象としての世界である「遍計所執性」です。
「縁起」に相当するのが、相互依存する実在としての「識」の活動である「依他起性」です。
「勝義諦」・「空」に相当するのが、執着をなくした「識」である「円成実性」です。

理論的には「円成実性」は無始なるものですが、現実的には、その名の通り目標として目指されるものです。
この主観的側面は「無分別智」であり、客観的側面は「真如」です。

「阿頼耶識」には煩悩によって汚染された部分と清浄な部分があります。
修行によって「阿頼耶識」を清浄なものにしていくことを「転依(パラヴルティ)」と言います。
「阿頼耶識」の中にある「有漏の種子」をなくし、「無漏の種子」を成長されることで「智」が生まれます。

この過程は、「転識得智」とも言い、「識」が「智」に変化します。
具体的には下記のように変化します。

1. 前五識  → 成所作智
2. 意識   → 妙観察智
3. 末那識  → 平等性智
4. 阿頼耶識 → 大円鏡智

「意識」が変化した「妙観察智」は「後得智」の正体です。

「四智」を獲得すると仏になるので、「仏の三身」が獲得されます。
真理そのものである「法身(自性身)」は「真如」とも呼ばれます。
霊的な体である「報身」は「平等性智」と共に生まれます。
肉体である「変化身」は、「成所作智」と共に生まれます。
また、環境としての器世間は仏国土となります。

如来蔵思想の影響を強く受ける前の唯識思想には、「智」の原因になる「無漏種子」があるかないか(受け入れることができるかで、きないか)は、人によって異なるとする説があります。
「菩薩」になれる種子のある人、「縁覚」になれる種子のある人、「声聞」になれる種子のある人、一切種子のない人、といった区別が生まれながらにしてある、ということです。

この「四智」に「法界清浄」という考えを合わせた「五法」は、密教の「五智」へとつながります。
また、唯識派は、「識」が究極的には「光」として体験されると考える場合もあるので、これも密教につながる考えです。


<歴史>

唯識派は、その当初から、先行していた如来蔵思想の影響を受けていました。
徐々にその影響は強くなり、「阿頼耶識」と「如来蔵」の結合・同一視を生み出しました。

後期の唯識派は、「無相唯識派」と「有相唯識派」に分かれ、論争があったとされます。
この二派に関する最初の記述は、シャーンタラクシタの『中観荘厳論』(8C)です。
しかし、この当時でさえ、はっきりと二派が存在したかどうかも不明です。

「有相唯識派」は、認識は対象の形相を有していると考えます。
分別以前に感覚像としての直感があり、これは真理であるとします。

ディグナーガ(陳那、5-6C)、ダルマパーラ(護法、6C):『成唯識論』、ダルマキールティ(法称、7C)らが主な論者です。
玄奘以降の中国・日本の法相宗は、この系統です。

一方、「無相唯識派」は、認識は対象の形相を有していないと考えます。
感覚像も含めて主客の構造があり虚偽であるが、それを生み出す働きの「心の輝き」は真実であるとします。
これが、密教の「光明」につながるのかもしれません。

スティラマティ(安慧、5-6C)が主な論者です。
彼は、アサンガ、ヴァスバンドゥ兄弟が究極的には「識」の実体性を否定したことを受け継ぎ、かつ、如来蔵思想の影響を強く受けました。

また、その後、「無相唯識派」は「中観自立論証派」の影響を受け、シャーンタラクシタが「瑜伽行中観派」を形成し、カマラシーラらに受け継がれます。
この二人はチベットでも活躍します。


<実践>

唯識派の観法は「唯識観」と呼ばれますが、それでは、認識そのものを対象にした認識が重視されます。

「成唯識論」の修行体系を紹介しましょう。
これは、中観派(般若学、「現観荘厳論」)と同じく、「五位(五道)」と「菩薩の十地」を基礎としています。
「五位(五道)」は、「資糧位(資糧道)」、「加行位(加行道)」、「通達位(見道)」、「修習位(修道)」、「究極位(無学道)」の5段階です。

1「資糧位」の段階では、教説を学び、利他を行いながら、「四無量」などの「止」と初歩の「観」を行います。

2「加行位」では、唯識派独特の観法(唯識観)によって、後天的な煩悩障と所知障(法我執)を抑えます。
具体的には、「倶舎論」、「現観荘厳論」と同じく、「四善根」の瞑想ですが、その特徴は「唯識観」と呼ばれる唯識派の教学に沿った観法を行う点です。

「四善根」の最初の2段階は「四尋思観」と呼ばれ、認識の対象である言葉・概念・主語性・述語性の4つは仮の存在であり、実在しないと観察・思索します。
後半の2段階は「四如実智観」と呼ばれ、先の認識の4つの対象を作り出した主体も存在しないと観察・思索します。

ここまでが凡夫の段階で、次からが聖者の段階(菩薩十地)です。

3「通達位(見道)」は、無漏で無概念の「無分別智」によってあるがままの真如を見る段階です。
また、それを基にした概念的な「後得智」を得ます。
これによって、後天的な煩悩障と所知障の種子と習気を断じます。
菩薩の初地に入り、「妙観察智(後得智)」と「平等智」が「意識」と「末那識」から生じます。

「無分別智」の瞑想は「真見道」と呼ばれ、「住唯識」の状態になります。
「後得智」の瞑想は、「相見道」と呼ばれ、主客の空を対象にした「三心相見道」と、四諦を対象にした「十六心相見道」の2つの観法があります。

4「修習位(修道)」では、波羅蜜を行じながら十地まで進み、先天的な煩悩と所知障の種子と習気を断じます。

5「究極位」では、「四智」を得て、仏に到達します。
「大円鏡智」と「成所作智」が生まれ、「妙観察智」と「平等智」が完成します。

修行道について詳しくは、姉妹サイト「仏教の瞑想法と修行体系」の「倶舎論」(説一切有部系):各論をご参照ください。

唯識派は、無意識にある「種子」に業の結果と原因を求め、また、智の原因をも求めました。
しかし、純然たる神秘主義思想である密教のように、もともと無意識に清浄な智が存在すると考え、「種子」を創造の原型と考えるには至りませんでした。
  


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中観派と般若学 [古代・中世インド]

「中観派(マードゥヤミカ)」は、唯識派と並ぶインド大乗仏教の2大学派の一つです。
また、中観派の修行道論などの実践的な教学は「般若学」と呼ばれます。

中観派は、ナーガルジュナ(竜樹、2-3C頃)に始まります。
ただ、実際には、彼が活動した頃には、まだ学派と呼べる存在があったわけではありません。
中観派は、ナーガルジュナの主著の「中論」を論拠として、「空性」を中心教説とします。
「中観派」というのは中国での名前ですが、正しくは「中派」、ないしは「空性論者」です。


<教学>

「中論」は、般若経典を根拠としながら、概念的認識の真理性を否定します。
一言で言えば、中観派の教学の目的は、言葉によって言葉を否定することであると言えるのではないでしょうか。

従来のアビダルマ哲学(小乗仏教の教学)では、「法」の実体性(実有論)が主張されていました。
ナーガルジュナは、これを完全否定しました。
ナーガルジュナの主な論争相手は説一切有部です。

「中論」では、「縁起」、「無自性」、「空」を同じ意味で、また「仮」、「非有非無」、「中道」もほぼ同じ意味で使います。

すべての存在は、「縁起」(相互依存)する存在であるがゆえに、「無自性」(本質を持たない)であり、それを「空」(実体性を欠いている)と表現します。
すべての存在が本質を持たないがゆえに、概念では正しく表現できないので、「空」という概念で表現することも「仮」の表現である。
しかし、それによって「有」や「無」といった極端な見解への執着を離れることができるので、これは「中道」である。

だいたい以上が、「中論」の主な主張です。
「中論」では「縁起」をアビダルマのように時間的因果関係ではなく、相互依存という論理的関係として捉えます。

「非有非無」というのは単に「ある/ない」の否定ではなく、論理学的にすべての命題の「肯定/否定」の否定を意味します。
つまり、形式論理学の基本となる「二項対立」を否定します。

「中論」では、他にも「四句分別」の否定、つまり4つの基本的な論理「A/B/A&B/notA&notB」(有/無/有&無/非有&非無)の否定も行います。

また、具体的属性の代表として、「八不」(不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去)が論証されます。
その論法は、「一異門破」「五求門破」「三世門破」などと呼ばれる論法です。

このように「中論」では、概念や論理を、概念対象の実体性の否定のために使われます。

「中論」は「諸行(現象)」だけではなく、「涅槃」や「仏」の実体性も否定します。
ですから、「涅槃」は「輪廻」と、「仏」は「諸行」と、異なる存在ではないのです。
これは、仏教における、すべての宗教化、形而上学化、絶対化を否定するものです。

では、現象(諸法)の背後にある実在として、なんらかの基体を認めるでしょうか?
「中論」では、「空」には、「空」の直観を得て見た肯定的な世界を指すという側面もあります。
しかし、「中論」では、実在的な基体を論理的には表現しません。
ですが、後の中観派は、如来蔵思想の影響もあるのか、このような基体を認めるようになり、「空(性)」を基体のように受け止めます。


<歴史>

中期(5-7C)の中観派は、一般に「帰謬論証派」と「自立論証派」に分かれます。

「帰謬論証派」は、「空」でないと前提すると矛盾することを示すことで、帰納法的に「空」を論証します。
チャンドラキールティ(月称)、ブッダパーリタ(仏護)、シャーンティデーヴァ(寂天)などが代表的な人物です。

一方、「自立論証派」は、唯識派のディグナーガ(陳那)が作った形式論理学を使って、「空」を直接的に論証しようとします。
代表的な人物は、バーヴァヴィヴェーカ(清弁)です。

後期(8C―)の中観派は、「自立論証派」が主流となりますが、唯識派と総合されて「瑜伽行中観派」となります。
代表的な人物は、ジュニャーナガルバ(寂護)(8C)や、チベットにも仏教を伝えた、シャーンタラクシタ(寂護)、カマラシーラ(蓮華戒)などです。

ちなみに、密教やチベット仏教では、「帰謬論証派」が主流となります。


<実践>

般若経典をベースにして生まれた修行体系を「般若学」と呼びます。
般若経典を重視する中観派の実践は、「般若学」に基づきます。
「般若学」は「厳観荘厳論」(マイトレーヤ・4C)をベースにしています。

「現観荘厳論」の修行体系は、「戒・定・慧」の「三学」と、北伝仏教の修行体系の基本である「五道」、そして、大乗仏教の基本である「菩薩の十地」をベースにしています。
修行階梯は、「資糧道」、「加行道」、「見道」、「修道」、「無学道」という5段階で構成されます。

「現観荘厳論」の修行体系は、説一切有部の修行体系を基にして、それを大乗化したものです。
また、説一切有部の修行を否定するのではなく、まずそれを修めてから、大乗の修行を修めるべきとしています。

「資糧道」の段階では、初歩の「慧」まで進みます。
「加行道」では、止観一体の三昧で「空」を理解します。
「見道」では、菩薩の初地に入り、後天的な煩悩を断じます。
「修道」では、十地まで進み、先天的な煩悩と所知障を断じます。
「無学道」では、等引智と後得智が一体となり、仏地に到達します。

「見道」と「修道」における認識の対象は四諦です。
大乗仏教である「現観荘厳論」の特徴は、実体否定の「空思想」と、利他的な「菩薩道」です。

詳しくは、姉妹サイト「仏教の瞑想法と修行体系」の「現観荘厳論(中観派:弥勒)」をお読みください。


西方の神秘主義との比較で言うなら、中観派は徹底的な「否定の道」を選んでいると表現できるでしょう。
しかし、存在の母体、至高存在を積極的に語らないので、そこには「上昇」というベクトルを感じることはありません。
また、否定の後の肯定、下降を積極的に表現することもありません。 
 


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大乗仏教の誕生 [古代・中世インド]

大乗仏教は、イラン系のサカ族、パルティア、クシャーナ朝、ササン朝などがインドを支配した時代に、イラン文化の影響の強い西北インドや中央アジアを中心に発展しました。
特に、インターナショナルな志向を持った帝国であるクシャーナ朝のもと、ヘレニズム的な宗教的シンクレティズム、マニ教などのイランの宗教、ギリシャの宗教、グノーシス主義などの影響を受け、普遍化して生まれたのが大乗仏教でしょう。

大乗仏教の特徴は、民衆救済重視・讃菩薩(華厳経)、仏に関する有神論・汎神論的傾向(法華経、涅槃経)、在家主義(維摩経)、空思想(般若経)、経典の文学的傾向、経典信仰などです。

中でも、大乗仏教の最大の特徴は、「他者救済」であり、その実践者としての「菩薩」を讃えることです。
部派仏教が目指すのは「解脱」した「阿羅漢」ですが、大乗仏教が目指すのは「他者救済」を行う「仏」であり、その道を歩む「菩薩」です。
それゆえ、従来の仏の部派仏教を「声聞乗/小乗」、自らを「菩薩乗/大乗」と称しました。
大乗仏教では「他者救済」が優先されるので、「解脱」は実質的に、無限に引き伸ばされる傾向があります。

他者を救済するためには、単に「煩悩」をなくすのではなく、そのための「智慧」が必要です。
他者に対する完全な理解である「一切種智」や、説法において真理を言葉で伝えることのできる「後得智」です。
ですから、部派仏教の聖者の段階である「四双八輩」が「煩悩をなくしていく度合い」によって決められているのに対して、大乗仏教の「菩薩の十地」には、利他を行える能力の度合いがプラスされます。

「維摩経」が主張するように、「他者救済」のためには、出家するより、在家にいるべきだという考え方もあります。 
「煩悩を断じずに涅槃に入るのが本当の三昧であり釈迦の教えである」と言い、「在家にいながら執着をなくし、清浄な戒律と修行を行うべき」と言います。
仏教が、出家を否定ないしは相対化し、在家や現世に意味を見出す思想へと変化していきます。


大乗仏教運動がどのようにして始まったのかは、ほとんど分かっていません。
おろらく、一つの起源を見つけることはできないでしょう。

大乗仏教の初期の経典が作られ始めたのは、-1C頃です。
しかし、大乗仏教の教団が確認されているのは5C頃です。
つまり、大乗仏教は500年くらいは、部派仏教教団内において、そのあり方に対する反対運動として存在したと言えるかもしれません。
大乗仏教は、長らく、部派(仏教内の異なる教団である宗派)の中で、それを越えて形成された「学派」であり、その学派の「経典作成運動」だったのです。

大乗仏教の誕生は、インドにおける民衆的なヒンドゥー教の誕生と類似したところがあります。
吟遊詩人や文学的背説法師のような存在が重要な役割を果たしたらしいことも共通点です。

また、ヘレニズム文化としては、キリスト教の誕生と類似したところがあります。
ですから、イラン系の救済宗教(マニ教、ミスラ教、ゾロアスター教)の影響を大きく受けたと考えられます。

大乗仏教の背景としては、当時、広がりを見せていた仏塔信仰が考えられます。
仏塔は、部派仏教教団に属するものもありましたが、仏塔で活動していた在家信者向けの説法師が、大乗仏教の背景を作っていったという側面も考えられます。
「仏舎利」に対する信仰が、徐々に、抽象的で不滅の「仏」へと昇華されていきました。

もう一つの背景として考えられているのは、「仏伝文学」(特に釈迦の前世物語である「ジャータカ」)とそれを担った詩人達です。
釈迦は前世において、燃燈仏に出会って、人々を救う誓願を行って菩薩となり、解脱の予言を受け、転生後に成仏しました。
大乗仏教は、この釈迦の前世の伝記物語を前提とし、それをならうものでした。

仏伝文学は超部派的存在で、「讃仏乗」と呼ばれることもあります。
仏伝文学では、大乗仏教の基本教義となる「六波羅蜜」や「十地」が生まれました。 
この流れが、原始仏典と比較してはるかに文学(物語)的な、大乗の経典につながるのでしょう。

もちろん、大乗仏教には、中観派や唯識派につながるような、学問僧(アビダルマ師)や修行僧(瑜伽師)が作ってきた部分があります。
特定の部派の教団を越えて、各教団内に「大乗学派」の僧がいたのでしょう。
初期の大乗仏教は、単に出家主義を批判するだけでなく、森の中での修行を薦めていましたが、これは瑜伽師の流れでの主張でしょう。

経典作成に関して言えば、それは大乗学派に特別なものではありませんでした。
紀元前頃から、インド哲学諸派も含めて、部派間では盛んに教義論争が行われ、互いに影響を受けながら、自らの教説を生み出してきました。
そして、その教説を元に、「経」や「論」を修正したり、新しく作成したり、「三蔵」に今まで入っていなかった文献を入れたりしました。
「経」を論じた「論(アビダルマ)」は、直接的には明らかに仏説ではありませんが、各部派は、それを「ブッダの言葉」であると認定しました。
「法性」とか、「埋没経」という観点から、仏説に矛盾しない文献や、従来知られていなかった文献も、「ブッダの言葉」と認めて、「三蔵」に入れることができるとしたのです。
さらに、従来の経典も、「未了義」なので「裏の意味」があると、新説で解釈できれば、新説も仏説にできるとしました。
その延長に大乗経典の作成が行われたのです。

また、大乗学派と伝統的な学派は、同じ部派の教団内部で、共存し、必ずしも排他的ではなかったのです。
つまり、部派教団において、大乗学派を仏説として認めていたのです。
例えば、法蔵部などは、「三蔵」に新しく大乗系と思われる「菩薩蔵」を付け加えています。
また、中国僧の義浄は、「四つの部派の中で大乗と小乗の区別は定まらない」と報告しています。


最初の大乗仏教の教団は、確認されている範囲では、べンガル、オリッサなど、周辺地域から生まれたようです。
エフタル(フン族の一派?)の侵攻によって、従来の部派仏教の寺院や経済基盤が破壊されたことが、新しく大乗仏教教団の誕生の一因になったのかもしれません。


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説一切有部とヴァズバンドゥの『倶舎論』 [古代・中世インド]

西北インドで中心的な勢力を持ち、北伝の大乗仏教の修行や思想に大きな影響を与えたのが「説一切有部」です。

説一切有部は、「三世実有」、「法体恒有」という表現に代表されるように、特殊な実体主義的哲学を持って言われることが多いようです。
その部分は大乗仏教や軽量部から批判の対象となりました。
しかし、上座部と説一切有部を比較しても、煩瑣な部分をのぞけば、大きな違いはないという印象を持っています。


『阿毘達磨倶舎論(以下、倶舎論)』は、5世紀頃に、ヴァズバンドゥ(世親)が書いたもので、北伝のアビダルマ論書として最も有名な書の一つです。
これは、説一切有部の『発智論』、『大毘婆沙論』をベースにしながら、それを説一切有部の分派である軽量部の見解を取り入れた立場から書きました。

ちなみにヴァズバンドゥはその後、大乗仏教の瑜伽行唯識派に転向し、唯識派でも重要な論書を残しています。


ここでは、『倶舎論』に書かれている修行体系と、「須弥山宇宙像」と呼ばれる宇宙論を詳細しています。


<宇宙論>

「須弥山宇宙像」は、世界山を中心とした宇宙論です。
仏教では原始仏典の長部『世記経』で記載されて以来、徐々に精密化していきました。
アーリア人の神話の影響や、オリエントの宇宙論の影響があると思われます。
また、プラーナ文献で語られるヒンドゥーの宇宙論ともそっくりです。

神々を含めて生物が輪廻する世界は大きく3つの階層に分けられます。
上から「無色界/色界/欲界」の三界です。
それぞれ、「形を越えた精神の世界/執着はなくしたが肉体を持つ生物がいる世界/いまだ執着を持つ生物の世界」です。

三界は、六趣(六道)が輪廻する世界です。
梵天のような一部の高いレベルの神を除き、神々を含めた六趣のほとんどの生き物は欲界にいます。
六趣の一つ地獄も欲界の地下にいます(あります)。

さらにこの三界の上には、精神と物質を超えた涅槃の領域である「滅盡定」があります。

「無色界」は4つの層で構成されます。
上から「非想非非想処」、「無所有処」、「識無辺処」、「空無辺処」です。
「色界」は大きく分けて4層に別れます。
上から「第4禅」、「第3禅」、「第2禅」、「初禅」です。
いずれも、「止」の瞑想のレベルに対応しています。
それぞれがさらに多数の層の天によって構成されます。
第4禅の一番上は、仏が涅槃に入っていく場所である「色究竟天」です。

「初禅」以下の世界を「一世界」と呼びます。
この「一世界」は無数に存在します。

「欲界」は上から「六欲天/地上/地獄」で構成されます。

また、地上は巨大な風輪の上にあり、風輪の上に水輪がありその上部は金輪になっています。
金輪の上は海になっていて、その中心には大陸と「須弥山」と呼ばれる「世界山」があります。
その下半分には4層の張り出しがあって、これが四天王が住んでいる「四大王衆天」です。
そして、頂上には帝釈天の宮殿があり、他にも33の神々が住んでいる「三十三天」です。
「須弥山」の上空には、空中天の形で、「六欲天」の残りの4天があります。

人間(インド人)は「須弥山」のある大陸の南方の大陸に住んでいて、その北方の池からは卍状に旋回しながら4つの川が流れ出しています。

部派仏教の宇宙論では、宇宙全体は消滅しません。
消滅するのは宇宙の下層だけなのです。
ただ、生滅の規模には3段階があって、3重に生滅が繰り返されます。
そして文化の盛衰を入れると4重の生滅が繰り返されます。

文化の盛衰は戦争、飢饉、流行病のどれかによって「1劫」ごとに起こります。
ちなみに1劫は想像できないほどの長い年数を表します。

最も小規模な宇宙の生滅は、「初禅」以下の一世界の生滅です。
これは「成劫/住劫/壊劫/空劫」という4つの時期を経て、繰り返されます。
一世界の破壊は火災によって起こります。
各時期は20劫の時間を要し、全体で80劫かかります。この周期を「大劫」と呼びます。
現在は、この住劫の9劫目、つまり住劫の折り返しの手前に当たります。
この住劫では1劫ごとに人間の寿命が増減します。
現在は寿命が減少する劫に当たります。

さらに、中レベルの生滅として「第2禅」以下の世界が8大劫に一度、水災によって消滅します。

さらに、大レベルの生滅として「第3禅」以下の世界が64大劫に一度、風災によって消滅します。
この周期を「64転大劫」と呼びます。

各劫には千人の仏が出現します。
現在の劫では釈迦が4番目の仏で、次の仏は5億7600万年後に現れる弥勒です。


<修行階梯>

『倶舎論』では修行階梯は「三道」で構成されますが、実際には準備段階を入れると5段階で構成されます。
「順解脱分」→「順決択分」→「見道」→「修道」→「無学道」の5つです。
この5段階は大乗仏教にも受け継がれ、「五道」と言われます。
大乗では「順解脱分」は「資糧道」、「順決択分」は「加行道」と呼ばれます。

五道の体系は、順序としては「戒」→「定(止)」→「慧(観)」の「三学」を継承しています。

しかし、最初の「順解脱分」の段階で、すでに「戒」、「定」を終えて「観」の段階に入ります。
上座部の『清浄道論』で言えば、「戒清浄」、「心清浄」、「見清浄」、「度疑清浄」までが相当するでしょう。

「順決択分」は『清浄道論』で言えば「道非道智見清浄」、「行道智見清浄」に相当するでしょう。
「見道」からは聖者の段階で、『清浄道論』で言えば「智見清浄」の前半で、預流果までに当たります。
「修道」の段階は「智見清浄」の後半で、阿羅漢向までに当たります。
「無学道」は阿羅漢果です。

『倶舎論』の「観」の特徴は、とにかく「四諦」の観察を繰り返すことです。
『清浄道論』では諸行の無常を対象とした観察の結果として「四諦」を認識を一挙に得るとしたのに対して、『倶舎論』は「四諦」を対象とし、順次認識を得るとします。

まず知的煩悩を絶ち、次に情的煩悩を絶つとして、2つを段階的に明確に区別します。
情的煩悩を絶つには三昧が必要とします。

また、煩悩を絶つに当たって、欲界から色界、無色界へと順に煩悩を絶っていきます。
そしてそれぞれの段階でも煩悩のレベルによって上から下へ、あるいは下から上へと順に煩悩を絶つとして細かく段階分けをしています。
 
 


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南方上座部とブッダゴーサの『清浄道論』 [古代・中世インド]

南方上座部は、インドの上座部系の分別説部がスリランカに渡り、その後、ミャンマー、タイなど東南アジア諸国に広がった部派仏教(小乗仏教)の宗派です。

一般に、仏教の経典はその時代時代に編集され、修正され、追加されるものです。
しかし、5Cにブッダゴーサ(仏音)が経典を確定して以降は、東南アジアの上座部仏教圏では、経典は変化していません。
こうして、パーリ語による同じ経典類を共有する、統一的な仏教文化圏が形成されました。

上座部仏教は合理的な思想傾向を持ち、釈迦以外の仏を認めず、神々の存在は認めますがほとんど意味を認めず、実質的には無神論的な傾向がある仏教です。

無常な世界をあるままに認識することで、心身を止滅させる(涅槃)ことを目指します。


『清浄道論』は、南インド出身のブッダゴーサがスリランカで大寺派の立場から5Cに書いたもので、それ以降、上座部最大の聖典となっています。
『清浄道論』は、それ以前の様々な経・論を参考にしながら、独自の思想・修行体系を打ち立てました。

主に影響を受けた経・論は、修行階梯を『解脱道論』から、「七清浄」をパーリ中部『伝車』から、「縁起説」(縁起は縁起支であり無常な諸行)と「四諦一時顕現説」を『無礙解道』から、「3種の完全知」を『義釈』から、「縁起成仏説」を『長部』・『相応部』から、「四諦三転十二行相」を『転法輪経』から、「四禅」の定義や「四諦」・「十二縁起」の説明を『分別論』から、などです。
ブッダゴーサは、自身の説の根拠となる『無礙解道』、『義釈』を新たに経蔵に「小部」として組み込みました。


<修行階梯>

修行の階梯は、「戒」→「定」→「慧」の3学を基本とし、詳細は「七清浄」としてまとめられました。
「戒」の段階が「戒清浄」、「止」を行う「定」の段階が「心清浄」、凡夫の「観」の段階が「見清浄」、「度疑清浄」、「道非道智見清浄」、「行道智見清浄」の4つ、聖者の段階が「智見清浄」です。
「観」の瞑想に限ると「五清浄」となります。

「五清浄」の流れは、大きく「三遍知」という観点から捉えられます。
「三遍知」は、「知遍知」→「度遍知」→「断遍知」の3段階からなります。
「知遍知」は、名色の各個別相を認識する知です。
実体(法)としての個々の名と色を分別し、その因果関係を認識します。
次の「度遍知」は、個々の名色の共通相(苦・無常・無我)を認識する知です。
最後の「断遍知」は、名色が常なるもの、楽なもの、我であるという認識の間違いをなくし、執着を絶つ知です。

また、「五清浄」の各段階は、四諦の認識とも一定の対応をします。

最初の「見清浄」は、名色(精神と物質)を知り、心身に私としての実体はなく、ただ無常である様々な名と色があるのみである理解する段階です。
これは「苦諦」の理解に相当します。

次の「度疑清浄」は、名色の因縁を知って、輪廻など三世に関する疑惑をなくす段階です。
これは「集諦」の理解に相当します。

3つ目の「道非道智見清浄」は、正しい修行道と非道を区別する段階です。
これは「道諦」の理解に相当します。

4つ目の「行道智見清浄」は、正しい修行の過程を知る段階です。
より細かくは、「八智」と呼ばれる8つの智と、総まとめ的な「随順智」、次への移行段階として「種姓智」からなります。
これらもおおむね「道諦」の理解に相当するのかもしれません。 

最後の「智見清浄」は、煩悩を離れて四諦を直接知る段階です。
より細かくは、「四道智」からなります。
この段階は、「止」と「観」が平等に結合します。
これは、「滅諦」の理解に相当するでしょう。

『清浄道論』では、「四道智」の各一瞬に「四諦」を知ります。
「四諦」を一瞬に知るので、「四諦一時顕現説」と呼ばれます。

また、認識の対象は諸行の「苦・無常・無我」であって、「四諦」は認識の結果として生じると考えます。
「智見清浄」の中では「涅槃」も対象にしますが、それ以外では、認識の対象はあくまで無常な諸行なのです。

このように、合理的に修行階梯を体系化したことが『清浄道論』の最大の特徴です。

*詳しくは姉妹サイトの仏教の瞑想法と修業体系の6つの記事をご参照ください。
 


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部派仏教のアビダルマ哲学 [古代・中世インド]

「部派仏教(小乗仏教)」は、一般に、仏教教団が最初の分裂後、20の部派にまで分かれた、大乗仏教ではない仏教を指します。
現在、スリランカや東南アジア諸国の仏教である「(南方)上座部」は、唯一現存する一派です。

各部派はそれぞれに「経」、「律」、「論」の三蔵と呼ばれる経典を伝承していました。
「論」は「経」が説く「法(ダルマ)」や「律」に対する研究であり、「アビダルマ」と呼ばれます。
各部派は、それぞれに独自の「アビダルマ」を発展されました。
「アビダルマ」は、仏教の哲学的な思想でもあり、詳細な存在論、認識論、実践論が作られました。

北伝仏教では、西北インドを中心に最大宗派だった「説一切有部」が、大乗仏教の批判対象でしたが、同時に多くの影響を大乗仏教に与えました。
特に「説一切有部」の流れで 5C頃書かれたヴァスバンドゥの「阿毘達磨倶舎論」は、北伝のアビダルマの代表的な書として後世に大きな影響を与えました。

一方、南伝仏教では、スリランカに伝えられた「上座部」が東南アジア諸国に広まり、同じ聖典を共有する統一された宗教文化圏を形成しました。
ブッダゴーサがスリランカで5Cに書いた「清浄道論」はその最大の聖典として、現在まで大きな影響力を持っています。


アビダルマ哲学では、世界を原子論的、要素主義的に見ます。
つまり、一般の概念やイメージによる認識は、「世俗諦」と呼ばれ、その対象は微細な実在の集まりでしかなく、実際には存在しないものです。
一方、真に存在するものは、現象を構成している「法」であり、それに対する認識は「勝義諦」と呼ばれます。

たとえば、人間(魂)といったものは「五蘊(肉体・感覚・イメージ・意志や感情や連想・思考)」の集まりでしかなく、実在ではないと考えます。

「法」の分類は部派によって異なります。
まず、存在は無常な「有為法」と永遠で心身を超越した表現不可能な「無為法」に分かれます。
「無為法」は上座部では「涅槃」のみです。
説一切有部では「択滅」と表現します。

大衆部では、心の母体を「心性本浄」と呼び、煩悩のない永遠の存在であるとします。
ウパニシャッドのアートマンや大乗仏教の如来蔵思想に似ています。

「有為法」は、瞬間瞬間に、生滅を繰り返しているとします。
しかし、「法」は「本質」を持つ存在です。
大乗仏教はこれを否定し、「空」の哲学を生みます。

「有為法」は上座部では、大きく「心(精神)」、「心所(精神の作用・状態)」、「色(物質)」の3種類に分類されます。
説一切有部では、精神でも物質でもない、その関係である「心木相応行」を加えます。
経量部では、「心所」を認めません。

らさに細かい分類はもちろん、部派や論書によって様々です。
例えば、上座部の『清浄道論』の法の体系では、52「心所」、89「心」、28「色」、1「涅槃」を立てます。
説一切有部の『倶舎論』は46「心所」、1「心」、14「心木相応行」、11「色」、3「無為」です。

物質である「色」には、元素としては、オリエントの5元素説に対して、上座部は4元素、説一切有部は「虚空」、「識」を入れて6元素です。

仏教の各部派にとって、「無我説」と輪廻の主体、業の相続の矛盾の解決は困難な問題でした。
説一切有部は心の母体として「心地」と、連続的な関係性としての「心相続」を考えます。
また、業を心理的なものだけでなく、「無表色」という業物質が身体に生まれると考えました。
経量部では業の影響を心に潜在的に存在する「種子」として、また、輪廻の主体を微細な意識である「補特伽羅」としました。
大衆部は先に書いたように「心性清浄」を立てます。
上座部は、無意識的なただ生きているだけの心の母体を「有分」を立てます。


部派仏教の実践論は、原始仏教から引き継いだ「戒・定・慧」の「三学」が基本です。
「定」は、集中する瞑想法である「止」が中心で、概念やイメージを停止して対象と一体化します。
「慧」は、観察する瞑想法である「観」が中心で、対象を直観的に認識します。

釈迦は「観」に瞑想により悟ったと考えられました。
一般に「観」の対象は、「四諦」や「十二縁起」です。
そして、「法」が「苦」であり、「無常」であり、「無我」であると理解して、それに対する執着を捨て去ります。

意識や認識世界は「涅槃(滅尽定)」、「出世間心」「無色界心」、「色界心」、「欲界心」の5つの階層で構成されます。
一般に、「欲界」は「止」の瞑想を行っておらず、対象に執着を持つ世界です。
「色界」は物質を対象にして一体化した「止」の瞑想を行っている世界です。
「無色界」は物質的な形を持たない特殊な対象と一体化した「止」の瞑想を行っている世界です。

「出世間心」は「観」の瞑想によって概念やイメージなしにあるがままを認識できるようになった心です。
「涅槃(滅尽定)」は精神が完全に止滅した状態の「止」の瞑想を行っている世界です。

「無色界」、「色界」、「欲界」は三界と呼ばれ、生き物が輪廻する世界です。
神々では、肉体を持たない「無色界梵天」、「梵天」、一般の「神々」が三界に対応します。
上座部などでは、生き物は神、人間、動物、餓鬼、地獄の五趣(五道)を、説一切有部などではこれに悪神(阿修羅)を加えた六趣(六道)を輪廻します。

三界を含む部派仏教の宇宙論は、部派によって異なりますが、「須弥山宇宙像」と呼ばれるものをほぼ共有しています。
これは、原始仏典の長部『世記経』などに現れ、徐々に精密化されてものです。
これについては「説一切有部とヴァスバンドゥの倶舎論(予定)」で紹介します。

「止」の瞑想修行は3段階(三修習)からなります。
「遍作修習(遍作定)」→「近行修習(近行定)」→「安止修習(安止定)」です。
この流れで、「止」の対象を「遍作相(感覚が捉える現実の対象)」→「取相(外的感覚なしに心の捉える対象)」→「似相(純粋な本質的対象)」と順に深めていきます。
「安止定」で初めて対象と一体化した「色界定」に到達します。

「似相」という本質を対象にした「安止定」は、イデアの観照的な認識に類似しているかもしれません。
といっても、イデア界といった形而上学的な存在は認めませんが。

「色界」の「止」の瞑想は、部派によって解釈が異なりますが、上座部のアビダルマでは5段階に分けられます。
「初禅」では精神の状態として、意識的な思考(尋)、無意識的な思考(伺)、身体的な喜び(喜)、身体の消えた幸福感(楽)、一体感(一境性)があります。
「第二禅」では、意識的な思考(尋)がなくなります。
「第三禅」では、無意識的な思考(伺)もなくなります。
「第四禅」では、身体的な喜び(喜)もなくなります。
「第五禅」では、身体の消えた幸福感(楽)もなくなり、不動の心(捨)と一体感(一境性)だけになります。

さらに、「無色界」の「止」の瞑想は4段階に分けられます。
「空無辺処」は、「虚空」を対象にして一体化します。
「識無辺処」は、「虚空」をなくして識別作用に一体化します。
「無所有処」は、識別作用をなくした状態、対象を持たないことを対象に一体化します。
「非想相非非想処」は、識別作用をなくすことをなくした状態に一体化します。

瞑想修業では、「止」に続いて「観」を行いますが、煩悩のない智恵を初めて持ち始めて以降の段階を「聖者」と言います。
「聖者」はさらに、「煩悩をなくしていく度合い」によって「預流」、「一来」、「不還」、「阿羅漢」の4段階に分けられます。
各段階を、それを達成する瞬間の「向」と到達した段階の「果」に分けると、「四向四果」とか「四双八輩」と呼ばれる8段階になります。

「預流」は、7回の転生の後に解脱できるという段階です。
「一来」は、1回の転生で解脱できるという段階です。
「不還」は、もう人間として転生することなく、梵天に生まれ変わる段階です。
「阿羅漢」は解脱に達した段階です。
   
 


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仏教の流れと神秘主義 [古代・中世インド]

仏教は、煩悩の根本原因を無意識レベルの認識の間違いからくる渇愛と考え、それをなくすことを目指す宗教(思想)です。
その点ではきわめて合理的な思想だと言えます。

しかし、概念やイメージを通した認識を否定(間違いであると)し、直観的な認識を肯定する点で、本ブログでの定義では神秘主義思想であると言えます。

他の点については、仏教での諸派によって様々な違いがあります。
密教においては、流出論的な世界観、象徴主義、気の身体論などが完備され、完全な神秘主義思想となります。

本ブログでは、仏教の諸派、歴史的発展・変化を、大きく分けて5分類で考えています。
「釈迦の思想(原始仏教)」、「部派仏教(アビダルマ仏教・小乗仏教・南伝仏教)」、「大乗仏教(大乗顕教・菩薩乗)」、「密教(タントラ仏教・金剛乗)」、「ゾクチェン(大円満乗・究境乗・任運乗)」です。

「釈迦の思想」は、最古層の経典であるパーリ「小部」収録の「スッタニパータ(集経)」の第4章として修められている「八つの詩句(義足経)」と、第5章として修められている「彼岸に至る道」を読むかぎり、上に書いた意味できわめて合理的であったようです。
死後の存在や輪廻を認めていません(肯定も否定もせず、問題として認めなかった)。
ただ、現世での生のみを問題にし、概念やイメージによる認識も間違いによって欲望が起こらないように、常に気をつけていろと述べています。
そして、教義を持たず、あらゆる論争を避けるように述べています。

「部派仏教」では輪廻は前提とされます。
そして、教義を持つなという釈迦の思想とは正反対に、仏教が哲学的な思想として、詳細な存在論、認識論、実践論が作られていきます。
部派仏教においては、目標としての涅槃は心身の完全な止滅を意味し、絶対的な現世否定思想となります。
また、存在を原子論的・要素主義的に捉え、現象を構成している真なる実在を「法」とします。
現世のあらゆる存在は無常ですが、涅槃は永遠とされます。 
また、瞑想の状態を分析し、それが意識や宇宙の階層論という側面を持つようになります。

「大乗仏教」は、おそらくはイランの宗教の影響を受けて、有神論的傾向を持ちました。
「仏」は宇宙的な原理となり、密教に向かって複雑なパンテオンを構成していくことになります。
一方、哲学的には、部派仏教に残る実体主義を批判しながら、「空」思想を洗練します。
また、「種子」の概念で、煩悩に関わる潜在意識論を作りました。

「密教」は、先に述べたように、流出論的な宇宙論、象徴主義、気の身体論など、神秘主義思想として、世界史的にも最も完成度の高い神秘主義思想となります。
究極存在としての「空」は、流出論的な創造の母体ですが、それは一切の存在の本質性、実体性を保証しません。
究極存在は「智慧(静的・素材的次元)」=「方便(核的・創造的次元)」の一体性と考えられます。
そのため、密教では心身を活性化することが悟りにつながり、悟りは自在に現世で活動できるもの(涅槃=輪廻)となり、かなり現世肯定的な思想となります。
悟りは具体的には、意識と身体の階層としての、仏の三身(法身・報身・変化身)の獲得とされます。

「ゾクチェン」は、煩悩を断たなくてもカルマを現わさないとする思想であり、インドの「業」思想史上の革命となりました。
究極存在は、「本体(静的次元)」、「自性(核的次元)」、「エネルギー(創造的次元)」の三位一体として考えられます。
これは 「初めから清らか」、「あるがままで完成」などと表現され、「ゾクチェン」は作為性の完全な否定を目指します。
最終的には、仏の三身とは異なる「虹の身体」の獲得を目指します。
また、密教にある象徴主義(偶像主義)を乗り越えて、普遍性を指向します。


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ヒンドゥー教神智学の時間論 [古代・中世インド]

ヒンドゥー教の聖典「ヴィシュヌ・プラーナ」で説かれる宇宙が生滅する循環宇宙論を紹介しましょう。
これによれば、宇宙の生滅は2重の構造を、文化を入れると3重の構造を持っています。
「倶舎論」で説かれているような部派仏教の世界観とも類似しているので、何らかの影響関係があったのでしょう。

宇宙の創造には2段階があります。
「インド・ヒンドゥー教の創造神話」で紹介したように、根源的な創造では、原初の水の中の原初の蛇の上に横たわるヴィシュヌ神が目を覚ますと、そのへそから宇宙蓮とともに創造神ブラフマーが生まれて宇宙を創造します。

2次的な創造では、ブラフマー神が様々な動物に姿を変えて以前の水没した宇宙を引き上げます。
そして、神々、人間の祖マヌ、生物、文化などを作ります。

まず、「ヴェーダ」の教えに基づいた地上の秩序ある世界は「クリタ・ユガ/トレーター・ユガ/ドヴァーパラ・ユガ/カリ・ユガ」という4段階を繰り返して432万年かかって生滅します。
この秩序ある世界が生滅する一生の時間の単位が「マハー・ユガ」です。

「カリ・ユガ」は「ヴァーダ」の教えが最も廃れる末法期で、この時期の最後には「7聖仙」と、ヴィシュヌ神の化身である白馬に乗った救世の英雄「カルキ」が現れそれを復活させます。
白馬に乗って現れるというのはミスラの神話を同じで、明らかにミスラ教の影響があります。
「カリ・ユガ」という考え方には、当時の外国勢力の相次ぐ侵入や、仏教の繁栄が反映しているものと思われます。

この秩序ある世界が1000回生滅する1000マハー・ユガが、ブラフマー神の1昼もしくは1夜に当たり、宇宙はブラフマー神の1日周期で生滅を繰り返します。
この時間を「カルパ」と呼びます。

また、この1カルパの間に14人の「人間の祖(マヌ)」が現れて、7聖仙や神々、マヌの子孫、地上の王達と共に地上を統治します。
現在は第7番目のマヌの時代に当たります。
つまり、ブラフマー神の1日の折り返し点の手前(明け方)なのです。

ブラフマー神の1日の終わりには、宇宙は形の上で一旦消滅します。
ヴィシュヌ神が破壊的な姿をとって、太陽の7光線の中に入り、地上の水分を蒸発させて7つの太陽となり、宇宙を燃焼させます。
次に、雲を吐き出して大雨によってそれを水没させ、さらに暴風によって雲を吹き飛ばします。
そして原初の龍の上で仮眠に入ります。

ブラフマー神の一生はヴィシュヌ神の1日であって、ブラフマー神の1日はヴィシュヌ神の瞬きあるいは一時的な仮眠のようなものです。
ブラフマー神の一生は72000カルパで、現在はちょうど折り返した次のカルパ(野猪のカルパ)に当たります。

ブラフマー神の一生の終わりには、宇宙は素材の上でも消滅します。
7層の元素が下から順に上のものに吸収されて消滅します。
こうしてすべてがヴィシュヌ神の中に吸収されます。
これがヴィシュヌ神の夜の眠りなのです。

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