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はじめに (目次) [はじめに (目次)]

このブログでは、古代のオリエントに発して東西の文化交流によって発展した神秘主義的な哲学、思想の流れを扱います。
このような試みは他にはないと思いますし、多数の独創的な解釈を行います。

神秘主義的な哲学は「神智学(セオソフィー)」とも呼ばれます。
これは時代や地域を超えた普遍性を持っているので、「永遠の哲学」と呼ばれることもあります。

このブログでは、「神智学」を、哲学的・概念的に表現された思想だけではなくて、象徴的イメージや神話として表現された思想も含めて考えます。

神智学の中にある時代や地域を超えた共通性が、歴史的な影響関係があって生まれたものか、もともと人間に備わった共通性から来たものが、実証することは不可能です。
本ブログでは、かなり直接的な影響関係があったと推測して紹介していきます。

古代の文化の中心地は、世界最初の都市文明を築いたメソポタミアと、世界最初の巨大帝国を築いたペルシャです。
ですから、大局的に見ると、この地方を中心にして東西に神智学が伝わっていったと推測できます。
そして、神智学の主な最終形は、西洋ではブラバツキーやシュタイナー、イスラム世界ではイスマーイール・タイイブ派やスフラワルディー、インド文化圏ではカーラチャクラ・タントラなどでしょう。

下記に順次書いていく予定の目次を掲載します。
既存の記事にはリンクを張っています。
15年ほど前に書いた文章もあります。
随時書き換えたりもします。

*長い間、いただいているコメントに気づきませんでした。申し訳ございませんでした。(2015.6.9)

*姉妹ブログ本「神話と秘儀」「世界の瞑想法」「仏教の修行体系」「夢見の技術」もご参照ください。

==目次==

◆序:神智学とは

神秘主義とは  ・3つの表現スタイル
象徴と象徴体系  ・神智学とは(ソフィアとロゴス)
創造神話・宇宙論・救済神話・哲学からの神智学の誕生

◆古代編 

◇創造神話と古代神智学
創造神話の神智学化  ・宇宙開闢神話の構造
天地創造神話の構造  ・エジプトの創造神話
メソポタミアの創造神話  ・ギリシャの創造神話
インド・ヨーロッパ語族のパンテオン  ・インド・ヴェーダの創造神話
インド・ヒンドゥー教の創造神話  ・イラン・ペルシャの創造神話

◇バビロニアの宇宙論とペルシャの救済神話・神智学
  ・占星学的宇宙論と神々  ・マズダ教 vs ミスラ教
ゾロアスター教の宇宙論:時間  ・ゾロアスター教の宇宙論:パンテオン
ゾロアスター教の宇宙論:空間  ・ズルワン主義の潮流
ズルワンと三位一体  ・ズルワン主義の宇宙論
ミトラの顕現と救済論

◇古代ギリ シャの神智学
ソクラテス以前の哲学  ・至高存在と根源の探究
生滅する宇宙  ・オルペウス派の輪廻思想
エンペドクレスによる統合  ・中期プラトンの神秘主義哲学
不文の教説とピタゴラス主義  ・プラトンの宇宙論
アトランティス伝説とオリエント神話  ・後期プラトンの観念哲学
アリストテレス神学  ・プラトン、アリストテレスの影響

◇ヘレニズム、ローマ期の神智学
ヘレニズムの宇宙論  ・7光線占星学理論とマグサイオイ文書
12星座神話とミトラス教  ・ストア派
中期プラトン主義  ・ヘルメス主義
錬金術  ・グノーシス主義
カルデア人の神託  ・マニ教
新プラトン主義  ・プロティノスの一者
プロティノスの流出  ・プロティノスの階層
プロティノスの帰還  ・イアンブリコスと降神術
プロクロスの階層と系列  ・プロクロスの帰還

◇ユダヤ、キリスト教の神学と神智学
メルカーバー神秘主義  ・セフィロート神秘主義
パウロとヨハネのキリスト教神秘主義  ・キリスト教の正統と異端
ギリシャ正教のテオーシスとヘシュカズム  ・教父哲学と神の闇
偽ディオニシオスと天使の位階

◆古代東洋&中世・近世編

◇イスラム教の神智学
  ・古代思想の継承と東西交流  ・ムハンマドの夜の旅
シーア派とイマーム  ・シーア派のミスラ神話(ミール派イスラム)
12イマーム派と隠れイマーム  ・イスマーイール派の流れ
初期イスマーイール派の神話  ・スーパーシーア派と7大天使
理性と信仰の対立  ・イスラム哲学とイブン・スィーナー
スーフィズム  ・スーフィズムと意識の階梯
スーフィズムの秘密言語と象徴  ・イスマーイール派神話の哲学化
イスマーイール派とアダムの復帰  ・スフラワルディーの神智学
イブン・アラビーの神智学

◇インド神智学
古代から中世へ  ・オリエント・イランからの影響
・インド神智学の特徴  ・サーンキヤ哲学
ヴェーダーンタ哲学  ・ヨガ派の修行体系
ヒンドゥー教神智学の階層論  ・ヒンドゥー教神智学の空間論
ヒンドゥー教神智学の時間論  ・仏教の流れと神秘主義
部派仏教のアビダルマ哲学  ・南方上座部とブッダゴーサの『清浄道論』
説一切有部とヴァスヴァンドゥの『倶舎論』  ・大乗仏教の誕生  ・如来蔵思想
大乗仏教の仏陀観と真理観  ・中観派と般若学  ・瑜伽行唯識派
・タントラ(ヴァジュラヤーナ、密教)  ・タントラの霊的生理学
・密教の発展段階  
・パーンチャラートラ・ヴィシュヌ派  ・カシミール・シヴァ派
・シュリー・クラ・シャークタ派  ・ナータ派(ハタ・ヨガ)
・金剛頂経(ヴァジュラ・ヤーナ)  ・グヒヤサマージャ・タントラ(マハー・タントラ)
・チャクラサンヴァラ・タントラ(ヨーギニー・タントラ)  ・カーラ・チャクラ・タントラ(不二タントラ)
・マハー・ムドラー  ・ゾクチェン
・イスマーイール・パミール派  ・シク教

◇中 国の神智学
道家思想の成立  ・漢代の道家思想の影響
南北朝時代の道家思想:玄  ・道教の成立
・存思・行気・煉丹術  ・方術
・陰陽五行説  ・その他の象徴体系
格義仏教  ・華厳宗
・天台宗  ・禅宗
宋学と程伊川  ・全真教
・内丹の歴史  ・内丹の理論(気の身体論)
・内丹の行法(仙道行法)  

◇中世のユダヤ・キリスト教の神学と神智学
マグダラのマリア派とカタリ派  ・テンプル騎士団
ヒルデガルトと女性の神性  ・3つのプレ・ルネサンス
スコトス・エリウゲナ  ・托鉢修道院とスコラ学
エックハルトと自由心霊派  ・ラビアのテレサと十字架のヨハネ
・カバラと生命の樹  ・グレゴリオス・パラマスのヘシュカズム
・ゲルマン神話とキリスト教の習合

◇近世ヨーロッパの神智学
・イタリ ア・ルネサンス(フィチーノ、ピコ)  ・北方ルネサンス(アグリッパ、パルケラスス)
・アンドレーエの薔薇十字思想  ・イギリ ス・ルネサンス(ディー、フラッド)
・ヤコブ・ベーメ  ・スウェデンボルグ 
・近代フリーメーソンと啓蒙主義  ・近代哲学と神秘主義

◆近代・現代編

◇近現代 ヨーロッパ
・サン・マルタン  ・マルティニズム
・ルネ・ゲノン  ・ブラバツキーと神智学協会
・シュタイナーと人智学協会  ・グルジェフ
・ゴールデンドーン  ・ピート・キャロルのカオス魔術

◇近現代 インド
・ラーマ・クリシュナとヴィヴェーカーナンダ  ・クリシュナムルティ
・オーロビンド  ・ラマナ・マハリシとニサルガダッタ・マハラジ
現代ヨガ(アイアンガーとパタビ・ジョイス)

◇近現代 アメ リカ 他
・ケン・ウィルバーとニューエイジ  ・ニュー・シャーマニズム
・ナイトスタンド・ブッディズム  ・プロセス指向心理学


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大乗仏教の仏陀観と真理観 [古代・中世インド]

大乗仏教では、部派仏教に比べて、「仏陀観」、「真理観」が大きく変化しました。


<仏陀観>

部派仏教においては、「仏」は開祖として理想化され、伝説化され、信仰の対象となっていたとしても、基本的には釈迦という人間でした。
しかし、大乗仏教では、「仏」は徐々に、超人間的存在、汎神論的真理となっていきました。

部派仏教の時代にも、釈迦の過去世の物語(ジャータカ)が盛んになり、釈迦以外の「過去仏」の存在も認められるようになりました。

大乗仏教では、釈迦が前世で、燃燈仏に出会ったことがきっかけになって菩薩になったように、菩薩になるためには、仏に出会う必要があったと考えたのでしょう。
しかし、大乗仏教の時代には、釈迦はすでに亡くなっていて「無仏」の時代になっていました。
そのため、一方では、「他土仏」、つまり、この世界の他に、十方に多数の世界があり、それぞれの世界に仏がいると考えられるようになりました。

もう一方で、仏は「不滅」、「常住」の存在であると考えられるようになりました。
つまり、肉体を越えた仏が必要とされたのです。

『法華経』では、「久遠実成の仏」という存在が考えられました。
これは、永遠の過去から存在し続け、あらゆる仏の根本となる仏です。
釈迦などはその化身のように考えられるようになりました。
「久遠実成の仏」というのは、「仏」の神格化を一歩進めた考え方です。

「大般涅槃経」でも、釈迦は肉体としては亡くなっても、如来は常在な存在であると主張します。
部派仏教では、「涅槃経」が釈迦の滅後は「法」を拠り所とすべしと説き、その後、「法」の集合体を「法身」と表現するようになります。
しかし、「大般涅槃経」では、この「法身」を、仏の「智慧」と「解脱」と一体のものとして、「仏」を抽象化して永遠の存在と考えました。
大乗仏教は「一切皆空」であり、「法」にも実体性を認めないので、「法」以外の根拠を必要としたのでしょう。
「智慧(般若)」を神格化(女神)して重視するのは、ヘレニズム思想の特徴です。

そして、これが「仏性」、「如来蔵」として、すべての人間の心の中に存在する(如来蔵思想)と主張しました。
「仏性」は、「仏の構成要素」、「仏の本性」という意味であり、「仏舎利」という物質的な存在(色身)を念頭に置きながらも、それを普遍的な原理として昇華したと考えることもできます。
こうして、仏は、すべての人間の心に存在する清浄な存在にもなりました。

その後も、超人間的・宇宙原理的な仏が、次々と登場します。
『華厳経』の「ヴァイローチャナ(毘盧遮那仏)」、浄土教の「アミターバ(阿弥陀仏・無量光仏)」、「アミターユス(阿弥陀仏・無量寿仏)」などです。

「ヴァイローチャナ」や「アミターバ」は光を特徴とした仏であるため、イランの「ミスラ」や「マズダ」の影響を考えることができます。
「アミターバ」は永遠・時間を特徴とするので、「ズルワン」の影響を考えることができます。

インドで悪神とされているアスラ(阿修羅)の神々は、本来は根源的な光の神々で、デーヴァ(天部)の神々より高い位に当たる存在でした。
アスラには、その王とされる「ヴィローチャナ」やその息子「バリ」がいます。
仏教の「ヴァイローチャナ」はこれらのアスラの光の神をモデルにしていると考えられています。
同じアーリア人のイランの宗教では、アスラに相当するアフラの神々(マズダ、ミスラなど)が、悪神化せずに主神のままにとどまりました。
ですから、「ヴァイローチャナ」、「アミターバ」、「アミターユス」などの仏は、イランの光の神の影響で、アスラ系の神々が仏教的に解釈されて復活した姿だと考えることができます。


また、「仏」という存在を階層的に分析する「仏身論」が発展し、「仏」の概念が、普遍的な原理へと高められました。

まず、「仏」は物質的な体の「色身」と、智慧としての「法身」に分別されました。
さらに「色身」は、肉体の「変化身(応身)」と、魂の体の「報身(受用身)」に分別されました。
一方の「法身」は、空そのものである「理法身(自性法身)」と、空を認識した智慧である「智法身」に分別されました。

さらにさらに、「理法身」は、超時間的で無始の「自性清浄身」と、煩悩から離れて清らかになった有始の「客塵清浄身」に分別されました。
「自性清浄身」は「初めから清らか」、「客塵清浄身」は「自然成就」と表現されます。

「自性清浄身」、「客塵清浄身」、「智法身」は、大乗仏教における三位一体説と考えることができます。

報身や変化身も細かく分別されましたが、省略します。


仏身の階層
法身
理法身・自性法身
自性清浄身
客塵清浄身
智法身
色身
報身・受用身
変化身・応身


このように、「仏」は神格化され、普遍的な原理となったのですが、大乗仏教は「空」思想が基本なので、「仏」も「空」であるということが強調されました。
たとえ「仏」が形を持つ存在となっても、それは実体のない存在であり、また、あらゆる存在の形・本質を根拠づけることはありません。

 
<真理観>

部派仏教においては、この世の実在・実体は「法」と呼ばれます。
しかし、大乗仏教は、「一切皆空」として、「法」にも実体性がない(法無我)と考えました。
つまり、大乗仏教は、「実在」を、「本質」を持たない、「実体」ではない存在と考えるのです。

一般に、存在は、「個々の存在・意識」と「諸存在・意識の母体(基体)」という2つに分けて見ることができます。
サンスクリット語では「ダルマ」と「ダルミン」になります。
母体としての「ダルミン」から、個的な存在・現象としての「ダルマ」が生まれるという関係です。
これは新プラトン主義の流出説や、サーンキヤの開展説に近い構造で、神秘主義思想の特徴でもあります。

アビダルマでは、「ダルマ」は現象ではなく個的な実体であり、「ダルミン」は「ダルマ」の基体ではなく「自性(本質)」です。
しかし、大乗仏教は、この「自性」も「空」であると否定します。
空思想では、「ダルマ」は実体性のない現象で、ナーガルジュナは「ダルミン」も「空」と考え、実在として表現しません。
そのため、真理を表現するに当たっては、「○○は空である」と否定的にしか表現できませんでした。

しかし、大乗仏教では、徐々に、「ダルミン」に当たる存在を、積極的に肯定的に表現するようになりました。

「ダルミン」に当たる言葉は、まず、「法性(ダルマター)」、「法界(ダルマダートゥ)」です。
「法」の 「母体」、「基体」に当たる「実在」ですが、それは「自性(本質)」ではなく、「我(実体)」でもありません。

また、これは、あるがままの真理として、「真如」とも表現されます。
これは、原始仏教の時代から、仏のことを、「あるがままの真理に到達した者」、大乗仏教の時代になると「あるがままの真理からやって来た者」という意味で、「如来」とも表現されることに対応します。

これらは、抽象化された「仏陀観」として生み出された、「仏性(ブッダダートゥ)」、「法身(ダルマカーヤ)」なども、これと同義の概念となります。
つまり、仏陀と智慧と真理を、主体と客体を一体とする概念となったのです。

また、これに伴って、否定的な意味であった言葉が、肯定的な意味へと変質しました。

「自性(スバヴァーヴァ)」という言葉もそうです。
本来、「自性」とは「実体」が持つ「本質」であって、大乗仏教ではこれは存在しないので、実在は「無自性」です。
しかし、「無自性」であること、つまり「無自性性」ということが、実在の「自性」であると表現するようになりました。
つまり、「自性」は、「存在しない本質」から、「本質が存在しないあるがままの真理」になったのです。
こうして「自性」という言葉も、肯定的な意味での「ダルミン」を示す言葉になりました。

同様に、「空(シューニャ)」、「空性(シュニャーター)」も、実体性を否定する述語から、あるがままの真理、現象を生み出す母体を表現する主語になりました。

また、「法」も、「法性」や「法界」の意味、つまり「ダルミン」の意味になり、「実体ではない個物」から、「あるがままの真理であり、現象を生み出す母体」になりました。

しかし、あくまでも、教義上は「ダルミン」は実在であっても、実体ではありません。
すべては「空」なのです。


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アビラのテレサと十字架のヨハネ [中世ユダヤ・キリスト教]

16世紀スペインのカルメル会の、アビラのテレサ(女子修道会)と十字架のヨハネ(男子修道会)は、中世カトリックの神秘主義の一つの代表的な形を示しています。

両者は共に、否定神学の実践的な傾向を持ち、言葉やイメージを伴った祈り・瞑想ではなく、言葉もイメージもない黙想(コンテンプレーション)を重視します。

また、最終的な神との触れ合いを「霊的結婚」、「聖婚」というイメージで語ります。
そのため、従来からあるキリスト教神秘主義の修行のプロセス「浄化」→「照明」→「合一」を、同時に「交際」→「婚約」→「結婚」と表現します。


ラビアのテレサは、『霊魂の城』で、神との霊的結婚に至る魂の上昇の過程を、人の魂の中にあるダイヤモンドや宝石で作られた「7つの宮殿」として表現して書いています。
中心の宮殿には花婿である神がいます。
また、魂は光の球のように光を放つ鏡であり、その中心にはキリストがいるとも表現します。

「7つの宮殿」はそれぞれ下記のような境地、試練を表現しています。

1 魂が自我の汚れを知る 神の現存に気づいていない
2 神の呼びかけに応えて神に近づいていく
3 神でないものから離れて、愛の業に励む
4 神の平和と甘味を実感する
5 自我を乗り越え神だけを求める
6 神との愛の一致への憧れに焦がれる(婚約)
7 神と魂が一つになる(結婚)

最後に神と魂が一つになると言っても、両者には区別があって結びつくという意味です。
「合一」という言葉は分かりにくいですが、「融一・融合」ではなく「結合」です。

この段階では、感覚的直観や想像力はなくなります。
「知性は働かずに休み、小さな小窓から何が行われているか覗かせてくれる」と表現しています。


十字架のヨハネは、ラビアのテレサを慕いながらも、独自な表現をしました。

彼は、『カルメル山登攀』、『暗夜』において否定神学的なアプローチを表現します。
彼は人間の心の要素を分類し、それを否定することで神に近づく道を示します。
それは「浄化」のプロセスであり、「暗夜」のイメージをもって示されます。

五感である外的な、肉体的・感覚的な働きをなくします。
想像力のような内的な、感覚的な働きもなくします。
様々な霊的な働きもなくします。

霊的な働きを細かく見ると、まず、「霊的視覚(見神体験)」、「啓示」、「霊的言語」、「霊的直観」に分けられます。
これらは「個別的・明瞭な」働きとしてまとまられます。
この霊的体験は、魂の「本体」による「接触」的体験として語られます。
イメージや観念を伴った体験であるにもかかわらず、視聴覚よりも触覚のイメージで語られるというのは、それを越えようとしている側面があることを思わせます。

次に、「全体的・不明瞭な」霊的働きがあります。
これは、すでにイメージや観念が一切ない体験で、瞑想ではなく観照(コンテンプレーション)と表現されるべきものです。
仏教の体系で言えば「無色界」の諸天に当たるのかもしれませんが、ヨハネはこれを「受
動的」、「平安」、「愛」といった言葉で表現します。

この段階で、否定神学的なアプローチは限界を向えているようです。
そのため、『カルメル山登攀』、『暗夜』は未完で終わり、ヨハネは霊的な結婚のイメージで語る『愛の生ける炎』を書き始めます。
これは、否定神学ではなく、神秘神学、恋愛神学と表現すべきものでしょう。

上記したすべての霊的体験の次に来るのが、神との「合一」であり、「結婚」と表現される体験です。
もちろん、花婿としてのキリストと、花嫁としての魂との結婚は、イメージによる表現であって、実際の体験にはイメージも観念もありません。
そして、この「合一」は、テレサと同じく「融一・融合」ではなく「結合」です。

この合一体験に関して、彼女は神が「愛の生ける炎」として、「甘味な接触」を行う、あるいは逆に「優しく傷つける」と表現します。

また、神の炎、光は、神が「投影した陰」であり、魂はそれを「鏡」として「照らし返し」、「輝きへと変容する」と表現します。

また、結婚のイメージでは、「私の胸の中であなたは目覚める」、「共に目覚める」、「神を神自身(恋人)に与え返す」と表現します。

ヨハネは日常的な言葉で表現し、スコラ学の言葉を使用しません。
これによって、異端とされることを避けつつ、スコラ学を越えた地点を表現しようとしたのでしょう。

そして、最終的な表現として、「あなたは私で、私はあなたであるでしょう」と表現します。
これは「合一・結合」を越えて、「融合・融一」の状態であり、現在形では異端的表現となるため、未来形として、終末における出来事として表現します。


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