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大乗仏教の仏陀観と真理観 [古代・中世インド]

大乗仏教では、部派仏教に比べて、「仏陀観」、「真理観」が大きく変化しました。


<仏陀観>

部派仏教においては、「仏」は開祖として理想化され、伝説化され、信仰の対象となっていたとしても、基本的には釈迦という人間でした。
しかし、大乗仏教では、「仏」は徐々に、超人間的存在、汎神論的真理となっていきました。

部派仏教の時代にも、釈迦の過去世の物語(ジャータカ)が盛んになり、釈迦以外の「過去仏」の存在も認められるようになりました。

大乗仏教では、釈迦が前世で、燃燈仏に出会ったことがきっかけになって菩薩になったように、菩薩になるためには、仏に出会う必要があったと考えたのでしょう。
しかし、大乗仏教の時代には、釈迦はすでに亡くなっていて「無仏」の時代になっていました。
そのため、一方では、「他土仏」、つまり、この世界の他に、十方に多数の世界があり、それぞれの世界に仏がいると考えられるようになりました。

もう一方で、仏は「不滅」、「常住」の存在であると考えられるようになりました。
つまり、肉体を越えた仏が必要とされたのです。

『法華経』では、「久遠実成の仏」という存在が考えられました。
これは、永遠の過去から存在し続け、あらゆる仏の根本となる仏です。
釈迦などはその化身のように考えられるようになりました。
「久遠実成の仏」というのは、「仏」の神格化を一歩進めた考え方です。

「大般涅槃経」でも、釈迦は肉体としては亡くなっても、如来は常在な存在であると主張します。
部派仏教では、「涅槃経」が釈迦の滅後は「法」を拠り所とすべしと説き、その後、「法」の集合体を「法身」と表現するようになります。
しかし、「大般涅槃経」では、この「法身」を、仏の「智慧」と「解脱」と一体のものとして、「仏」を抽象化して永遠の存在と考えました。
大乗仏教は「一切皆空」であり、「法」にも実体性を認めないので、「法」以外の根拠を必要としたのでしょう。
「智慧(般若)」を神格化(女神)して重視するのは、ヘレニズム思想の特徴です。

そして、これが「仏性」、「如来蔵」として、すべての人間の心の中に存在する(如来蔵思想)と主張しました。
「仏性」は、「仏の構成要素」、「仏の本性」という意味であり、「仏舎利」という物質的な存在(色身)を念頭に置きながらも、それを普遍的な原理として昇華したと考えることもできます。
こうして、仏は、すべての人間の心に存在する清浄な存在にもなりました。

その後も、超人間的・宇宙原理的な仏が、次々と登場します。
『華厳経』の「ヴァイローチャナ(毘盧遮那仏)」、浄土教の「アミターバ(阿弥陀仏・無量光仏)」、「アミターユス(阿弥陀仏・無量寿仏)」などです。

「ヴァイローチャナ」や「アミターバ」は光を特徴とした仏であるため、イランの「ミスラ」や「マズダ」の影響を考えることができます。
「アミターバ」は永遠・時間を特徴とするので、「ズルワン」の影響を考えることができます。

インドで悪神とされているアスラ(阿修羅)の神々は、本来は根源的な光の神々で、デーヴァ(天部)の神々より高い位に当たる存在でした。
アスラには、その王とされる「ヴィローチャナ」やその息子「バリ」がいます。
仏教の「ヴァイローチャナ」はこれらのアスラの光の神をモデルにしていると考えられています。
同じアーリア人のイランの宗教では、アスラに相当するアフラの神々(マズダ、ミスラなど)が、悪神化せずに主神のままにとどまりました。
ですから、「ヴァイローチャナ」、「アミターバ」、「アミターユス」などの仏は、イランの光の神の影響で、アスラ系の神々が仏教的に解釈されて復活した姿だと考えることができます。


また、「仏」という存在を階層的に分析する「仏身論」が発展し、「仏」の概念が、普遍的な原理へと高められました。

まず、「仏」は物質的な体の「色身」と、智慧としての「法身」に分別されました。
さらに「色身」は、肉体の「変化身(応身)」と、魂の体の「報身(受用身)」に分別されました。
一方の「法身」は、空そのものである「理法身(自性法身)」と、空を認識した智慧である「智法身」に分別されました。

さらにさらに、「理法身」は、超時間的で無始の「自性清浄身」と、煩悩から離れて清らかになった有始の「客塵清浄身」に分別されました。
「自性清浄身」は「初めから清らか」、「客塵清浄身」は「自然成就」と表現されます。

「自性清浄身」、「客塵清浄身」、「智法身」は、大乗仏教における三位一体説と考えることができます。

報身や変化身も細かく分別されましたが、省略します。


仏身の階層
法身
理法身・自性法身
自性清浄身
客塵清浄身
智法身
色身
報身・受用身
変化身・応身


このように、「仏」は神格化され、普遍的な原理となったのですが、大乗仏教は「空」思想が基本なので、「仏」も「空」であるということが強調されました。
たとえ「仏」が形を持つ存在となっても、それは実体のない存在であり、また、あらゆる存在の形・本質を根拠づけることはありません。

 
<真理観>

部派仏教においては、この世の実在・実体は「法」と呼ばれます。
しかし、大乗仏教は、「一切皆空」として、「法」にも実体性がない(法無我)と考えました。
つまり、大乗仏教は、「実在」を、「本質」を持たない、「実体」ではない存在と考えるのです。

一般に、存在は、「個々の存在・意識」と「諸存在・意識の母体(基体)」という2つに分けて見ることができます。
サンスクリット語では「ダルマ」と「ダルミン」になります。
母体としての「ダルミン」から、個的な存在・現象としての「ダルマ」が生まれるという関係です。
これは新プラトン主義の流出説や、サーンキヤの開展説に近い構造で、神秘主義思想の特徴でもあります。

アビダルマでは、「ダルマ」は現象ではなく個的な実体であり、「ダルミン」は「ダルマ」の基体ではなく「自性(本質)」です。
しかし、大乗仏教は、この「自性」も「空」であると否定します。
空思想では、「ダルマ」は実体性のない現象で、ナーガルジュナは「ダルミン」も「空」と考え、実在として表現しません。
そのため、真理を表現するに当たっては、「○○は空である」と否定的にしか表現できませんでした。

しかし、大乗仏教では、徐々に、「ダルミン」に当たる存在を、積極的に肯定的に表現するようになりました。

「ダルミン」に当たる言葉は、まず、「法性(ダルマター)」、「法界(ダルマダートゥ)」です。
「法」の 「母体」、「基体」に当たる「実在」ですが、それは「自性(本質)」ではなく、「我(実体)」でもありません。

また、これは、あるがままの真理として、「真如」とも表現されます。
これは、原始仏教の時代から、仏のことを、「あるがままの真理に到達した者」、大乗仏教の時代になると「あるがままの真理からやって来た者」という意味で、「如来」とも表現されることに対応します。

これらは、抽象化された「仏陀観」として生み出された、「仏性(ブッダダートゥ)」、「法身(ダルマカーヤ)」なども、これと同義の概念となります。
つまり、仏陀と智慧と真理を、主体と客体を一体とする概念となったのです。

また、これに伴って、否定的な意味であった言葉が、肯定的な意味へと変質しました。

「自性(スバヴァーヴァ)」という言葉もそうです。
本来、「自性」とは「実体」が持つ「本質」であって、大乗仏教ではこれは存在しないので、実在は「無自性」です。
しかし、「無自性」であること、つまり「無自性性」ということが、実在の「自性」であると表現するようになりました。
つまり、「自性」は、「存在しない本質」から、「本質が存在しないあるがままの真理」になったのです。
こうして「自性」という言葉も、肯定的な意味での「ダルミン」を示す言葉になりました。

同様に、「空(シューニャ)」、「空性(シュニャーター)」も、実体性を否定する述語から、あるがままの真理、現象を生み出す母体を表現する主語になりました。

また、「法」も、「法性」や「法界」の意味、つまり「ダルミン」の意味になり、「実体ではない個物」から、「あるがままの真理であり、現象を生み出す母体」になりました。

しかし、あくまでも、教義上は「ダルミン」は実在であっても、実体ではありません。
すべては「空」なのです。


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