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如来蔵思想 [古代・中世インド]

「如来蔵(タターガタガルバ)」とは、人の心の中にある仏の本性のことであり、「仏性」と同義です。
如来蔵思想は、すべての人間の心の中には、仏と同じ清らかな心(自性清浄心)が存在していて、煩悩(客塵煩悩)によって覆われているが、それを取り去ると仏になることができる、という思想です。

如来蔵を巣主張する「如来蔵思想」は、初期の大乗仏教の思想潮流の一つです。
中観派や般若系経典が真理を「~がない」という否定的に表現したことを受けて、唯識思想と如来蔵思想は、「~がある」という肯定的な表現を行いました。

如来蔵思想には、唯識派のような「意識論」はなく、「如来論」というべき思想です。
それゆえ、「修道論」もなく、人々に希望を与える「救済論」というべき思想です。

一般に、仏教は「無我」を主張し、「アートマン」のような実体を認めません。
しかし、初期の如来蔵思想の経典や論書には、「如来蔵」を「アートマン」と同様な存在であると言っているものもあります。

「如来蔵」の概念は、直接的には部派仏教大衆部の「心性本浄」の延長上にあると言えます。
インドの文脈では、ヴェーダーンタ哲学の「アートマン」、サーンキヤ哲学の「プルシャ」の影響を受けているでしょう。
また、ヘレニズムの文脈では、グノーシス主義や、心の深層にある神性があるというギリシャ・イラン系宗教からも「影響を受けているしょう。
大乗仏教はヘレニズムの東端の運動であり、ヘレニズム思想の特徴であるグノーシス主義と近いのは、当然だと言えます。

仏教の経典・論書の上では、「法華経」が、如来は不滅な存在であること、すべての人が仏になることができると宣言したことが、如来蔵思想への最初の一歩だったのでしょう。

それを受けて、1C後半から2C中葉の「大般涅槃経」では、釈迦がなくなっても、如来の本性としての「智慧」(法身)は常住であり、すべての人にその如来の本性である「仏性」が存在していると、改めて宣言しました。
そして、この経典の中で、「仏性」と同じものとして「如来蔵」という言葉を使いました。

「大般涅槃経」では、「如来蔵」は、「法身」=「涅槃」でもあり、「常楽我浄」を特徴とするものとされます。
この仏の実在性を強調するために、「如来蔵」を「我(アートマン)」であると表現しているのです。
ただし、これは誤解を受けやすいので、菩薩のための秘密の教えであるとも表現します。

次に、「如来蔵経」は、「大般涅槃経」の「すべての人の心の中に仏性がある」ことを、「醜く萎れた花弁のうてな(蓮台=パドマガルバ)で光輝を放ちつつ瞑想する如来たち」という比喩で表現しました。

如来思想を論理的に表現しようとしたのは、「宝性論」です。
同書、及びその註釈書は、「一切衆生が如来の本性を有している」ことを、

 ・ 法身が遍満している(仏の智慧が人の中に浸透している)
 ・ 真如が無差別である(それは無垢なる本性なので、仏も人も不二である)
 ・ 如来の種姓が存在する(仏となる可能性を持っている)

という3つの観点で説明します。

如来蔵思想を体系的に論じた「宝性論」では、
・因である「有垢真如」=「如来蔵」、「仏性」=「智恵」
・果である「無垢真如」=「菩提」=「慈悲」
・両者の共通の性質を「真如」
としました。

また、唯識思想までは、真理の客体としての「涅槃」は無為法、それを認識する主体(心・識)としての「智恵」は有為法として区別されました。
しかし、如来蔵思想では、両者が一体のものとなりました。
「真如」という遍在性を含意する概念が、無為法と有為法の区別をとっぱらったのです。

如来蔵思想は実在論的傾向が強いため、当初は、唯識派と接近していました。
しかし、6C以降は中観派と接近し、「如来蔵」は「空」、「無我」であるとされるようになりました。

これを受けて、チベットでも、中観帰謬論証派の「自性空説」の立場から、「如来蔵」を実体視する立場を、「他空説」として否定するのが正統派となっています。


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