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古代思想の継承と東西交流 [イスラム教]

イスラム教誕生以前に、古代思想の中でアレキサンドリアなどのギリシャ語系の思想は、シリア語に訳されてシリアのアンティオキアからエデッサ、ニシビスなどのペルシャ帝国西南部の都市に移されました。
これには異端とされてローマ帝国、ローマ・カトリックから弾圧され追い出されたキリスト教のネストリウス派や単性論者などが大きな役割を果たしました。
彼らはササン朝ペルシャの王に優遇されて帝国内の各地に広がり、シリア語を母体としたために、彼らがギリシャ系哲学などの思想を伝える結果になったのです。
また、ペルシャ王は6世紀にジュディーシャープールにシリア人を中心にインド人やユダヤ人などの様々な民族の学者を集めた学校を作って学問の中心地とし、東西の文化を交流させました。

一方、アテナイの哲学者達は529年のアカデメイア閉鎖を期にペルシャ帝国内のシリアのハッラーンに亡命しました。
ハッラーンは一種の哲学都市、カルデア系星辰信仰都市で、ギリシャ哲学以外にもヘルメス主義やマンダ教グノーシス主義、ミスラ・マニ教ズルワン主義、占星学の一大中心地でした。
ハッラーンのヘルメス主義者は「シバ教」、また、ミスラ・マニ教徒はイスラム教下では「サビアン教(サビーア教)」と名乗りました。
また、イスラム神秘主義のスーフィズムの中に吸収されたものもあって、これらは「ザンダカ主義」と呼ばれました。

ペルシャ帝国ではマズダ教とミスラ・マニ教は敵対関係にありました。
ミスラ・マニ教はバビロニア、シリアからクルディスタン(ペルシャ系のメディア人の血を引くクルド人が住むアルメニアからトルコにかけて西北アジア)、そして北東イラン、ソグディアナ(同じくペルシャ系のソグド人=現在のタジク人の住むサマルカンド周辺の東中央アジア=現在のタジキスタン)に展開しました。
ソグド人はシルクロード交易を仕切って東西交流に大きな影響力を持ち、パミールを経てシルクロード諸都市(ウイグル、トルクメニスタン)や中国へミスラ・マニ教を伝導しました。
東北インド・パキスタンのパミール、カシミール地方は古くバクトリア時代からミスラ教が盛んで、イスラム化以降もカシミールを経てインドへ展開しました。
「パミール」と「カシミール」の「ミール」はクルド語で「ミスラ」のことです。東北イランやこれらの地にはズルワン主義・カルデア神学がパフラヴィー語に訳されて伝わりました。

そして、イスラム教誕生後、トルコのアンティコアがイスラム帝国に占領された時、弾圧されていたキリスト教のネストリウス派や単性論者は喜んでイスラムを迎えました。
また、ミスラ・マニ教徒もマズダ教を殲滅したイスラムを喜んで迎えました。
マズダ教がペルシャの民族宗教にこだわり2元論と考えられたのに対して、ミスラ・マニ教は普遍主義で1元論と考えられたからです。

イスラム世界では8~9世紀には、ユダヤ、キリスト教徒との論争の理論武装のために、ギリシャ思想がシリア語から、カルデア・ペルシャ思想がパフラヴィー語からアラビア語へと翻訳が進められ、バグダッド、バスラ、クーファといった都市で学問が栄えました。
特に教皇マアムーンは832年にバグダッドに「叡智の家」という哲学の研究組織を設立して、哲学の受容を奨励しました。

一方、ミスラ・マニ教とイスラム教は習合して秘教的なシーア派、さらに秘教的なスーパー・シーア派となりました。

9世紀にはインド思想がイスラム世界に紹介されるようになりました。
そして、モンゴル軍のイスラム世界侵入後の16世紀には、モンゴル王アクバルがインドとペルシャの文化交流を奨励して、多くのサンスクリット文献がペルシャ訳されました。
また、ミスラ・マニ教系の一派がカシミールなどの北インドに展開したり、ゾロアスター教徒の一団がインドに移住したり、スーフィーとインドの聖者が互いに往来をしました。


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