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教父哲学と神の闇 [古代ユダヤ・キリスト教]


キリスト教の神学的な哲学は新プラトン主義をキリスト教化する形で成立しました。
古代のキリスト教神学は、一般に教父哲学と呼ばれます。

主要な思想家(教父)は、3世紀アレキサンドリアのオリゲネス(彼は元アンモニオス・サッカスの弟子でした)、4世紀トルコはニュッサのグレゴリウス、4-5世紀イタリアのアウグスティヌス(彼は元マニ教徒でした)、5-6世紀シリアのディオニシオス・アレオパギタ(偽ディオニシオス)らです。
彼らの思想には違いもありますが、総体としての教父哲学を紹介しましょう。

キリスト教やユダヤ教、そして教父哲学の特徴は、まず、神が新プラトン主義の一者のような抽象的な存在ではなくて、「人格神」であることです。
ですから、霊的知性界も神の「思考内容」であって、神の語る「言葉(ロゴス)」なのです。

第2に、神からの啓示をもとにした「聖書」は絶対的なもので、その解釈が重視されました。

第3に、世界は神によって「無から創造」されたものなので、神と被造物の間に絶対的な「断絶」があるのです。
プラトンやプロティノスにとっては霊魂の本質は一者と同質か連続的なものなので、霊魂が自らを浄化して上昇し、自分自身であることによって、あるいはその延長で一者を映すことで合体すると考えました。
ですが、教父にとっては霊魂は神と断絶しているので、霊魂が上昇すると、霊魂は神との断絶を体験するのです。
そして、神そのものは絶対に知ることができないのです。

これは、神秘主義の否定とも考えられますが、接することのできない神と密接な関係を持つという、逆説的に表現される神秘的な体験が行われていたとも言えます。
また、神は言葉で表現することができないとする「否定神学」は、キリスト教神秘主義の伝統となりました。

「人格神」や「聖書の重視」、「無からの創造」という教義は、ユダヤ教やイスラム教とも共通する点です。
キリスト教独自の教義は、父なる神が子なる神「キリスト」として肉体に宿って、つまり「受肉」して地上に降りてきたという教義です。
これが第4の特徴です。
そして、このキリストとは「ロゴス」なのです。

新プラトン主義では霊魂が一者を「愛(エロス)」して上昇を行うことが重要であったのに対して、キリスト教では神が積極的に被造物を「愛(アガペー)」して下降して「恩恵」を与える存在なのです。
これは「照明」とも表現されます。
ですから、キリスト教は新プラトン主義に比較して現世肯定的です。
下降してくるキリストとロゴスは「花婿」、受け入れる教会と個人の霊魂は「花嫁」と表現されます。

旧約聖書では、モーゼが神と契約をする前に、神はシナイ山で濃い雲におおわれて現れ、モーゼはその中に入って闇を見ます。
これは神の認識には雲や闇として表現される否定的な体験が必要であると解釈されました。
また、契約の後で、モーゼが神にその姿を直接見たいと懇願すると、神はモーゼを岩の裂け目に入れ、モーゼの前に現れた時にはモーゼを手でおおい、その後で後ろ姿だけを見せます。
これは、岩の裂け目がキリストであって、後姿しか見れないことが神との断絶を表現していると解釈されました。
(先ほど述べたように、ユダヤのメルカーバー神秘主義では直接に神の顔を見ます。)

旧約聖書によれば人間は神の「似像」として創造されました。
これは新プラトン主義でも同じですが、新プラトン主義では魂の中に神性が潜在的に内在するのに対して、キリスト教では被造物である人間の魂は神、キリストと断絶していてこれを認識することはできません。
ですから、人間の魂は磨かれた鏡のように浄化されることで、本来の神の「似像」となって、ロゴスの「似像」を映すのです。
こうして、間接的に神と接するのです。

プロティノスと同じようにすべての認識を捨てさって神に近づくのですが、教父達は逆に、神が直接は知りえないこと、神との隔たりとして神を体験します。
この体験は「神の闇」と表現されます。
この神の闇の中で、知りえない神に限りなく近づくのです。

これはグノーシス主義の神話の原父=「深淵」を思い起こさせます。
ですが、グノーシス主義の「深淵」はあくまでも神性の表現であるのに対して、「神の闇」はまずヌース段階の認識を捨てるということの表現で、また、神の認識不可能性=断絶の表現です。
ですから、これはグノーシス主義の「境界」に近いかもしれません。

先ほどキリスト教は神そのものを認識できないとしている書きましたが、前の項でギリシャ正教は神を認識できると書いたことと矛盾しているように見えます。
実は、ギリシャ正教では神を光として見ることができることと、闇としてしか見れないことの両方を認めるのです。
この矛盾は14Cにグレゴリオス・パラマスによって、神の「本質」は見れないけれど、その「働き」は見れるのだとして理論化されることになります。
そして、「神の闇」は単純な光の反対の闇なのではなくて、光を生むような闇、光の過剰によって目がくらむような闇、つまり「光=闇」と表現されるような矛盾的に表現される闇なのです。

一般にキリスト教以外の神秘主義で、絶対存在に近づいた時の体験が「闇」と表現されることはありません。
キリスト教教父のこの神秘体験は、体験自体が特殊なのでしょうか?
それとも表現だけが特殊なのでしょうか?


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